先日から、「タイの逆ナン」を例に、
ストーリーの本質にせまろうと試みている。
「そう思うでしょ、ところが」と
インパクトと転換で進めていく方法論。
それぞれは絵として記憶されるような、
イコンであるべきだということ。
ただ、それでストーリーは終わりではない。
「タイの逆ナン」は、
単なる笑い話に終わらない力の強さを持っている。
それは何だろう。
私たちは、
この話を聞き終わり、
「最後に」どういう感想として、
この小話を「まとめる」だろうか。
「タイでは、オカマの逆ナンに気をつけなければ」
であろう。
我々は、この小話から、
教訓という「結論」を「引き出している」。
この結論、この例では教訓だが、を、
テーマという。
テーマとは、ストーリーの理論の中で、
最も解釈がばらばらで、
人によって言うことの違う、
あいまいなものの一つだ。
曰く、
本質であるとか、
核や中心になるものとか、
作者の言いたい事とか、
結論とか、
共有すべき価値とか。
なんとなく曖昧で、定義の難しい代物である。
見終えた人によって、
解釈がばらばらになりがちな、
「テーマ」という言葉は、
まずその定義がばらばらだからではないか、
と僕は考えている。
(テーマとモチーフについての定義がばらばらな為、
それは混同しがちで、さまざまな芸術分野において
混乱が生じている。それについて、
僕なりに定義した記事を過去に書いた。
いまだにそれはどこかで引用されたり、
よく読まれているようだ)
僕の定義する「テーマ」は、
現在以下のようなものだ。
その話に一度も登場していない考え方の癖に、
見終えたらそうだと思えるテーゼ
(命題。PならばQの形式をしている)
逆に、ストーリーは、
最終的にテーマに集約されるように、
全てのものが計画的に配置されるべきである。
「タイの逆ナン」の話が終わった時、
我々は一通り笑ったあと、
ひとつの教訓を得る。
「タイではオカマかどうか注意しなければ」と。
もちろん、
元々この話は、
「オカマに気を付けろ」という意図をもって、
最初から計画してつくられた話ではない。
単なる「ひどい目にあった」という失敗談だ。
重要なのは、
にも関わらず、
我々は、
そこから「教訓を勝手に導き出して、納得する」
という性質を持つ生き物である、
ということである。
話者は、
警告するためにこの話をしょうと思ったわけでもないし、
教訓をそこから得たかどうか定かでもないのに、
観客は、
「勝手に結論を受け取る」
という傾向がある、
という話をしているのである。
だから、国語の試験における、
「作者の意図」なんて問題は、
はなはだ間抜けな問題である。
「月が奇麗ですね」と発言した場合、
その意図は「ただ感想をいっただけ」なのか、
「あなたが好きなので、こうして一緒にいたい」なのか、
「月が奇麗だ、ということを言い訳にしたい」なのか、
「ネットで見たから、これが告白かどうかハラハラしている」
なのか、分らないではないか。
問題は、作者にどんな意図があろうとも、
受け手側が、「勝手に意図を汲み取ろうとする」
という所にあるのである。
テーマとは、
だから、
作者の意図でもなんでもなく、
「聞き手がここから受け取るもの」
なのである。
だから、
我々は、
「テーマを決めて、それが誤解ないように伝わるように、
話を組み立てる」
べきではなく、
「この話をここでしたら、
こういう意味として受け取られるだろうな」
と予測しなければならないのだ。
「話をする」ということの本質は、
する側の意図よりも、される側の解釈なのである。
(だから、誤解や曲解という現象が生まれる)
もちろん、あなたは人間だから、
言いたい事や伝えたい事があるだろう。
しかしそれは、
「おはなし」でやるべきことではないのだ。
それは、演説や、説得で、やるべきなのである。
「話があります。離婚しましょう」の「話」は、
ストーリーではなく、
「ある長さにまとまった主張」にすぎない。
「話」には、複数の意味が重なっていて、
我々が書くのは、主張ではなく、
フィクションのストーリーだ。
たとえ、タイの逆ナンの話(この場合フィクションではないが)
をして主張する気がなかったとしても、
聞き手はそれを警告として受け取る。
話という構造には最初から、
「意図が勝手に変わる」
ということが内包されているのである。
さて、
我々のなすべきことは、
だから、
自分の主張に忠実に全体を整えることではない。
「自然にひとつの結論に収束するように、
話をまとめていく」ことなのである。
その結論とは、「わたしの結論」ではなく、
「その話の結論」なのである。
ここに、
作者と、話自体の分離が存在する。
作者は、
すべてをコントロールしている全能神ではない。
むしろ、暴走する話の行く先をうまく整える、
植木職人のようなものなのだ。
話の行く先とは、
落ちのことである。
インパクトではじまり、
「ところが」でねじ曲がり、
行く末の予想もつかない流れを、
ある結論になるように、
落ちをつけなければならないのだ。
「タイの逆ナン」の例で、
僕はいくつかのバージョンを示した。
「タイで美女に逆ナンされ、
ホテルに連れ込んだらオカマだった」
「タイで美女に逆ナンされ、
ホテルに連れ込んだらオカマだった。
でもやっちゃった」
「タイで美女に逆ナンされ、
ホテルに連れ込んだらオカマだった。
でもやっちゃった。
でもそれは美人局でさ」
のみっつだ。
そして僕は、
みっつめのバージョンが完成度が高いと考えている。
それは、
「うまい話には気をつけよう」
という落ちに落ちているからである。
「うまい話はどこにでも転がっていて、
普段ならひっかからないんだけど、
旅先という浮かれた所では、
人はひっかかりがちである」
という教訓にもなっている。
一つ目のバージョンが示す教訓は、
「タイは恐い」という、まだまだ曖昧なものである。
「オカマは恐い」「オカマのいるタイは恐い」という、
一種の差別意識にも発展しかねない。
だから、
一種の経験談としては面白くても、
フィクションのストーリーとしてはいまいちだ。
二つ目のバージョンが示す教訓は、
「意外な展開でも豪胆さが重要」とか、
「初志貫徹」といったところか。
「解釈次第で幸せは得られる」ということかも知れない。
これも、
「ところが」
という転換の大胆な面白さはあるが、
フィクションのストーリーとしては、
まだ曖昧なものである。
この体験談が、
フィクションのストーリーになるのは、
三番目のバージョンの、
「誰もがそう結論づけられるような、
明確な落ちを持った時」
なのである。
我々作者サイドからこれを眺める場合、
バージョンを経るごとに、
「落ちを見つけた」
という感覚になる。
最初は、ただの「ところが」の面白い断片であったものが、
次々に「ところが」を足していくことで、
さらに面白くなり、
最後の「ところが」を足したら、
「落ちになった(落ちた、とも言う)」
という発見をするのである。
勿論、
別の「ところが」だったら、
落ちにならないかも知れないし、
別の落ち(教訓)になるかも知れないし、
まだ別の落ちに結びつきそうな何かかも知れないし、
「ところが」としては面白くないものかも知れない。
それは、
私たちが次に何を思いつくのか分らない以上、
予測できるものではない。
次の「ところが」が出るまで分からない。
つまり、
我々が出来る最善のことは、
なるべく面白い「ところが」を出すこと、
それが落ちに結びつかないようなものなら、
それを却下し、
また別の「ところが」をうんうん唸って出すこと、
もし複数の落ちが存在する複数のバージョンが出来たなら、
面白いほうかつ落ちにきちんと落ちてるものを最終形とすること、
あるいは、
さらに面白く、かつ別の落ちがいいか、
かつ全体の完成度もあげて、無駄なく落ちへいくように出来ないか、
などをすることなのである。
これは決して、作者の主張を整えることではない。
我々はむしろ、
自分の中からランダムに出てくる面白いものを、
うまく整える係なのである。
植木屋にたとえたのは、そういうことだ。
いらないものは捨てて、
伸びそうなところは伸びるまで伸ばす。
そういうことをするのである。
(ここで熱心な読者は、
過去記事で紹介した、テヅカチャートのことを思い出すだろう。
もし知らない人がいるなら、検索してほしい)
どういうことを思いついて、
どういう方向に枝を伸ばしていくかについては、
才能としか言いようがない。
(パターンをある程度知ってることは重要かも知れない)
しかし、それの何が的確で、
何がどういう落ちに落ちてるか判断するのは、
理性である。
つまり。
ストーリーをつくるという行為は、
ただ面白いことを言い続けることではない。
それをしながら、
同時に落ちを見つける(または誘導する)
ことをすることなのである。
さて、
では、落ちのない話でもいいかな?
多分、よくない。
80年代からさんざん研究されたが、
「落ちないと落ちた気がしない」
という(自己言及的な)結論だと思う。
私たちは、落ちのない話は、
きっと記憶しない。
「タイで逆ナンされたがオカマだった」と、
誰かが言っても、数日たてば忘れてしまうだろう。
すべての「ただ面白いこと」は、
流れて消え去る。
消え去ることが美だという考え方もある。
(音楽や笑い、演劇など、ライブ系の人にはそういう人もいる)
しかし我々のやることは、
「形として残るものをつくること」である。
それは、記憶として残るものである。
その記憶のされ方が、
結論という意味でのテーマなのだ。
テーマに多いパターンは、教訓だろうか。
僕はそこまで調査したわけではないので何とも言えない。
だからここでは、
テーマのことを「テーゼ」という言い方にして、
範囲を曖昧にさせてもらっている。
ストーリーの本質は、テーマである。
それは作者が設定するのではなく、
聞き手が記憶に格納しやすいようにする、
脳の仕組みのような気がする。
だから我々はその仕組みを利用するように、
話を組むべきだ。
主張をするだけなら、
論文やこのようなブログを書けばいいだけのことだ。
わざわざ難易度の高いストーリーなんて作らなくてもいい。
主張する為にストーリーを作ってしまうと、
大抵は主人公が演説して訴えるような、
フィクションとしては一番詰まらない場面を書きがちだ。
なぜ詰まらないかというと、
「すべて架空の出来事」というルールを破って、
架空のキャラが、作者の代わりに聞き手に主張するからである。
この時点で架空という枠組みを飛び越えていて、
だから冷めるのである。
それは、主張という認識が、そもそも間違っている。
ストーリーの本質とは何か。
僕はそれを解き明かしたくて、
このブログを書き始めた。
一種の結論に、たどりついたような気もする。
あ。まだまだ続きますが。
2017年03月25日
この記事へのトラックバック
「ストーリーを作るときは主人公が介入しなかった場合のバッドエンドから作ると良い。登場人物たちは彼らなりに善戦するが、力不足や食い違い、誤解、無理解で破滅する。それを解決するのが主人公になる。」
・・・みたいな考え方があるそうです。
なかなか面白いなと思った次第であります。
なかなか面白い考え方ですね。背理法というか、if世界というか。
(しかし、ずっとただ一緒にいるだけで最後に一回だけ大活躍する、
最強系メアリースーを排除できなさそうなのが、
気がかりではあります)
何段階にもステップを踏んだ、
プロセスとして考えるならいいですね。
(あとバッドエンドにも使えるのが興味深い)
いずれにせよ、
ストーリーとは主人公の世界への介入である、
というのはいい定義だと思います。