テーマと落ちの記事を書いた直後に、
偶然「セトウツミ」を見て、
あまりのタイムリーさに吹き出した。
この映画には落ちがない。
それは、前記事までの議論によれば、
形として存在する意味のないものである。
流れて消えてしまうものであれば、
(たとえば演劇や深夜番組ならば)
なかなか面白い試みではないか、なんて言ったかも知れない。
しかし、形として残る映画としては、
このストーリーは、映画的ストーリーの体をなしていない。
「川原で男子高校生が話しているだけの映画」
というコンセプトで、どこまで行けるだろうか、
という一種の実験映画だ、というなら、
この映画の存在価値もまあなくはないだろう。
だが驚くべきことに、
この映画には原作が存在するという。
あほかと思った。
最近の脚本家は、
この程度のオモシロ会話劇を、原作に頼るのかと。
(実際は書けるのだが、
オリジナルだと客を呼べないので、
原作実写化だということで商売化する、
という戦術なら、それはそれで邦画界の闇である)
さて、
この映画は最初はまあまあオモロイが、
30分を過ぎた頃からつらくなる。
エピソード0のその次からである。
これまでの議論によれば、
ストーリーとは、
「そう思うでしょ。ところが」
の連鎖で紡がれるのであった。
たしかにそのあたりは中々面白くて、
ワンシチュエーションといえども、
凝った仕掛けがあって、もっている。
ところが。
延々続く二人の掛け合いが、
30分を過ぎた頃、
退屈になってくるのだ。
会話劇の質が悪化するわけではない。
割と質はそろっている。
なのに、退屈してくる。
なぜ?
落ちが、見えてこないことにである。
そもそも「川原でのしょうもない男二人の会話劇」
というコンセプトである。
ここから一ミリも出られない。
つまり結論は決まっている。
「こういうしょうもない青春も、アリやな」だ。
それは、エピソード0で池松が席についた瞬間に、
確定したようなものだ。
「こんな日々があってもええ」というモノローグとともに。
つまりこの映画は、
約30分でテーマをつけてしまった。
落ちといえるかどうか微妙だが、
落ちはついてしまったのである。
だからそのあと「同じこと」が延々続いて、
我々はどんどん退屈していくのである。
新しい落ちに変ることもないし。
そもそも、
「川原で男二人が延々しゃべっている」
というコンセプトが映画的ではない。
何故ならこのコンセプトは静止画(一枚絵)だからだ。
時間軸とは、変化のことである。
変化を描くのが映画的ストーリーだ。
「そう思ったでしょ、ところが」と、
次々に状況は変化していかなければならない。
にも関わらず、
「川原で男二人が延々しゃべっている」
という一枚絵は、一向に変わらない。
勿論、それは「無為な時間を過ごすことこそ青春」
というテーマと密接な関係がある。
しかしそれならば、
周囲はどんどん変化していくのに、
ここだけは変わらない、
という対比などでそれを見せていくのが映画という時間の描き方だ。
それは監督も無意識に意識していて、
二人の服装を変えて季節を変えて行くことや、
ネコの死や、番長の父の養育費支払いが完済したこと、
などで周囲の時間経過をつくろうとはしていたようだ。
しかしながら、
「無為な時間こそ青春」の傑作に、
北野武の「キッズ・リターン」がある以上
(激動の経験をしたのちの二人が、
失敗して学校に戻って来て、
円環の象徴である校庭をぐるぐる回るラストは傑作である)、
この言い訳は通用しないと思うのだ。
ふたつの差は明白だ。
「変化しない一枚絵で、変化しない」か、
「変化するもので、変化できなかったことを描く」かの違いだ。
前者は退屈で、
後者はおもしろい。
差は何か。
「こうだと思った、ところが」があるかないかだ。
映画は時間の芸術だ。
変化しない一枚絵は、時間軸を持たない。
だから、映画にならない。
これが映画になると考えて、
映画化にゴーサインを出したプロデューサーは、
映画とは何かを、なにひとつ分ってない無知だと思う。
2017年03月25日
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