2017年03月26日

原作と映画版の天地の差(セトウツミ批評2)

あんな映画の原作ってどういうことやねん、
と知りたくて、漫喫いってきた。
3時間パック980円。

原作はきちんと漫才になっていた。
映画はその劣化コピーだった。

この天地の差について議論したい。


原作は、ちゃんと漫才になっている。
どういうことかというと、
毎回毎回、
きちんと落ちをつけてくる。
(失敗したやつも多数あるけど)

漫才というのは、
ただボケがボケて、
ツッコミが突っ込むのを延々と繰り返すわけではない。

話題の転換を何度かやったうえで、
落ちが来なければならない。

この落ちは、実は前ふりと関係がある。
ほとんど最初にふったことを、
ラストに持ってきて、
これまでの話全体を纏めるのが、
落ちという笑いのことである。


逆にこれは、
笑いという成分を引き算すると、
ストーリー構造になっている。
笑いに騙されているのは素人だ。
玄人は、とくに我々ストーリーテラーは、
落ちに、ストーリーに必要な、
ラストシーンと同等の機能を見るべきだ。

原作者は少なくとも漫才に必要な、
その落ちの構造を知っているので、
毎話毎話きっちり落ちをつけてくる。
前半のネタを前ふりのどれかに選びつつ、
それをラストに持ってきて、
話の纏め(けり)としているわけだ。

さて映画版。

映画の脚本を書いた人は、
この懸命なる落ちへ向けての、原作者の格闘を理解していない。
ただ表面上の「面白い言葉」コピペしただけである。
だから、
各エピソードがキレがある落ちで、
落ちたという気にならない。

また。

原作は未完だが、
映画は(オムニバス構造とはいえ)一本の完結作品だ。
ということは、
映画版は映画版なりに、落ちをつくらなければ、
原作の最も大事にしている部分、落ちというものに対して、
向き合わなかったことになってしまう。

漫才とは、
表面上はオモロイことを、
掛け合いの中でやるだけである。
しかしそれだけではすぐ刺激が足りなくなるので、
そう思わせといて、ところが、
と次の話題へと接続していく。
それが、ただ終わるのは漫才として二流で、
一流の漫才というものは、
ほとんど最初の前ふりを天丼に使い、
落ちを決めてくるものである。

ということは。

映画版を、長いポテトか、ずっと立ってるオッサンから始めたわけだから、
映画版は、そのどちらかで終わらせなければならない。

それが落ちという笑いである。

(面白いかどうかは別にして、
最後は立ってるオッサンとヤンキー息子がマクド買ってきて、
4人で「このポテトなっが!」って言って、
神妙な顔で終わるとか)

脚本家は、まったくこのことについて、無知だったのだ。


原作は未完。映画版はそれで完結。
完結するということは、
「これまでのことが、なんだったのか」
という纏めをしなければならない。
それがないのなら、
纏めのない、やりっ放しジャーマンでしかない。

いや。
原作は、毎話毎話、ちゃんと落ちを作るために、
必死で考えていることが伝わってくる。
(失敗した回があることでもそれは分かる)
その原作の高潔な精神を、
映画版は冒涜したとすら言える。

下手でも下手なりに、落ちをつけてくれれば、
この下手くそが、と半分怒れば済むことだったが、
原作の精神を理解してしまった僕は、
この映画版「セトウツミ」を、
唾棄すべきうんこに認定する。


うんこについて、これ以上語ることはない。
ひとつあるとしたら、
邦画界は、うんことうんこじゃないものを、
区別できなくなってるのか?
うんこに1800円払わせるのなら、
駅のトイレに1800円払って入れや。
980円の3時間パックのほうが安いってどういうことや。
posted by おおおかとしひこ at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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