あんな映画の原作ってどういうことやねん、
と知りたくて、漫喫いってきた。
3時間パック980円。
原作はきちんと漫才になっていた。
映画はその劣化コピーだった。
この天地の差について議論したい。
原作は、ちゃんと漫才になっている。
どういうことかというと、
毎回毎回、
きちんと落ちをつけてくる。
(失敗したやつも多数あるけど)
漫才というのは、
ただボケがボケて、
ツッコミが突っ込むのを延々と繰り返すわけではない。
話題の転換を何度かやったうえで、
落ちが来なければならない。
この落ちは、実は前ふりと関係がある。
ほとんど最初にふったことを、
ラストに持ってきて、
これまでの話全体を纏めるのが、
落ちという笑いのことである。
逆にこれは、
笑いという成分を引き算すると、
ストーリー構造になっている。
笑いに騙されているのは素人だ。
玄人は、とくに我々ストーリーテラーは、
落ちに、ストーリーに必要な、
ラストシーンと同等の機能を見るべきだ。
原作者は少なくとも漫才に必要な、
その落ちの構造を知っているので、
毎話毎話きっちり落ちをつけてくる。
前半のネタを前ふりのどれかに選びつつ、
それをラストに持ってきて、
話の纏め(けり)としているわけだ。
さて映画版。
映画の脚本を書いた人は、
この懸命なる落ちへ向けての、原作者の格闘を理解していない。
ただ表面上の「面白い言葉」コピペしただけである。
だから、
各エピソードがキレがある落ちで、
落ちたという気にならない。
また。
原作は未完だが、
映画は(オムニバス構造とはいえ)一本の完結作品だ。
ということは、
映画版は映画版なりに、落ちをつくらなければ、
原作の最も大事にしている部分、落ちというものに対して、
向き合わなかったことになってしまう。
漫才とは、
表面上はオモロイことを、
掛け合いの中でやるだけである。
しかしそれだけではすぐ刺激が足りなくなるので、
そう思わせといて、ところが、
と次の話題へと接続していく。
それが、ただ終わるのは漫才として二流で、
一流の漫才というものは、
ほとんど最初の前ふりを天丼に使い、
落ちを決めてくるものである。
ということは。
映画版を、長いポテトか、ずっと立ってるオッサンから始めたわけだから、
映画版は、そのどちらかで終わらせなければならない。
それが落ちという笑いである。
(面白いかどうかは別にして、
最後は立ってるオッサンとヤンキー息子がマクド買ってきて、
4人で「このポテトなっが!」って言って、
神妙な顔で終わるとか)
脚本家は、まったくこのことについて、無知だったのだ。
原作は未完。映画版はそれで完結。
完結するということは、
「これまでのことが、なんだったのか」
という纏めをしなければならない。
それがないのなら、
纏めのない、やりっ放しジャーマンでしかない。
いや。
原作は、毎話毎話、ちゃんと落ちを作るために、
必死で考えていることが伝わってくる。
(失敗した回があることでもそれは分かる)
その原作の高潔な精神を、
映画版は冒涜したとすら言える。
下手でも下手なりに、落ちをつけてくれれば、
この下手くそが、と半分怒れば済むことだったが、
原作の精神を理解してしまった僕は、
この映画版「セトウツミ」を、
唾棄すべきうんこに認定する。
うんこについて、これ以上語ることはない。
ひとつあるとしたら、
邦画界は、うんことうんこじゃないものを、
区別できなくなってるのか?
うんこに1800円払わせるのなら、
駅のトイレに1800円払って入れや。
980円の3時間パックのほうが安いってどういうことや。
2017年03月26日
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