若手のバカなクリエーターと話していると、
時々「落ちなんて要らないんです」というやつがいる。
「ライブ感みたいなことが大事で、
落ちを求めていない」なんてことも平気で言う。
それは、「自分は落ちのあることが出来ない」
という弱者の告白なのだ、と思うことにしている。
何故なら、落ちをつけるのも、才能だと思うからだ。
(生まれつきのものか、後天的に学べるのかは分からない)
そして多分ストーリーとは、
始めたことを終わらせる芸術である、と言えるのだ。
落ちなんて要らないという人の好むものは、
おそらく始まりも曖昧なものである。
明確に始まるのではなく、
気づいたら始まっていて、
終わりも意図的に終わるのではなく、
ただ時間切れで終わる、みたいな。
デジタルのものが増えてきて、
こういう傾向が増えたような気がする。
僕がそれを強く感じたのは、
ファレルウィリアムズの「Happy」という楽曲の、
「24時間PV」という企画を知ったときだ。
始まりがあり、終わりがある、音楽というものを、
ループ(これまたデジタル音楽が出してきた概念)
させてしまったのだ。
公式サイトでは、
延々とループするその音楽PVを見れる(今は知らない)。
そのダンスパートを素人募集し、
次々に上書きしていく仕組みもあった。
これには、
始まりも終わりもない。
螺旋のような進化もない。
ただそこにあるだけの、
動いているけれど一枚絵である。
時間軸がある音楽というものを、
時間軸のない一枚絵に閉じ込めてしまった、
画期的な考え方だと思った。
無限有線放送みたいなことか。
勿論、
それはそこまで深く考えて戦略を練ったわけではなく、
こういうのおもしろくね?
という発想でしかないだろう。
しかし、その無意識の発想は、
他人に伝わるし、言葉にならないまま集合的無意識になる。
デジタルは時間軸がない。
ものすごく縮めると、そういうことじゃないかと思う。
経年劣化がないと信じられている。
(物理的なHDDやサーバやケーブルは経年劣化するけれど、
データはそうではないから、デジタルは永遠である、
というのは一種の宗教だ)
自分は死んでも、HDDに貯めた画像は残ってしまうとか、
飯島愛のブログにまだコメントは書き込まれ続けているとか。
こういう発想が、
CMからストーリーを奪い、
バラエティーや音楽からストーリーを奪い、
ドラマや映画から、
ストーリーを奪って一枚絵に格下げしている原因ではないかと、
僕は考えている。
いや、犯人探しをしてもしょうがない。
一枚絵を発想することは、
わりと簡単に出来るのだが、
「始まらせたことを、きちんと終わらせる」
ことは、難易度が高いと僕は考える。
それは、一種の責任を取ることだからだ。
逆に言えば、一枚絵を考えることは、
無責任に出来る。
件の若手クリエーターは、無責任にこれまで仕事をしてきた。
そんな人に、始めてかつ終わらせる責任を追わせることは、
無理というものだ。
僕が無能だと一言で切る、その若手クリエーターは、
どうして怒られたのか分からないかも知れない。
ストーリーとは、
始めてかつ終わらせる芸術である。
終わらないストーリー(打ち切り、グダグダ、
どんどん詰まらなくなっていって見放される、
中途半端な所で、他のことが始まってしまい、
それもまた中途半端な所で、別のことが始まってしまう)
は、非難される。
始まらないストーリーも非難される。
(始めることは割と簡単だから、
あまり例はないかもしれない。
あるとすると、本題が始まらない、
デートの時の無難な会話とか?)
始めても終わりに向かわないストーリーも非難される。
(というより、そういうものは、大抵途中で詰まらなくなる)
つまり、
終わらせる為に始める。
終わりがなければ、始める意味がない。
終わりで責任を取れないのなら、
始めるべきではない。
ストーリーがもし一点からしかスタート出来ないのだとしたら、
それは終わり方の責任からである。
決して、
引き込まれるオープニングや、
興味深い大事件や、
過去のトラウマからではないのだ。
「落ちも見えていないのに話を始めてしまった」
なんて上級者は良く言う。
それはこの事を言っている。
逆に言えば、落ちが見えたら、
話を始めることが出来るのである。
そこに至るような始め方をすればよく、
かつ、なるべく面白おかしい始め方を思いつけばそれでよい。
途中は、常に「そう思ったでしょ。ところが」で、
上手く面白くすればいい。アドリブでやる人もいるだろう。
当初より勝手に膨らむこともよくある。
時々、終わりの方向に軌道修正すればいい。
これは終わりの方向が見えていないと出来ないことだ。
また、聞き手は、
その「終わりの方向に軌道修正している」
ということを、無意識に感じとる能力がある。
(自分の観客としての経験を思い出せばわかるだろう)
それを感じ取ったとき、
聞き手は、「この話は、ちゃんと終わりの方向に向かっている」
と、安心するのである。
逆に、
面白い「ところが」の連続で、
大変楽しいひとときを過ごしていても、
どこへ向かっているのか分からないなら、
そのうち不安になってくるというものだ。
「話を見失った」とは、そういう感覚だ。
話を見失ったのは、これ以上面白い「ところが」を思いつけない、
という状態のことではなく、
「どこへ向かって、次の面白いものを思いつくべきか分からない」
という状態のことである。
有名な、
第一ターニングポイント、第二ターニングポイントでの、
センタークエスチョンの確認というイベントや、
シドフィールドのピンチポイントは、
話を見失わないための、処方箋のようなものだ。
これだけで必ず大丈夫だ、
と僕は思わない。
話によっては、そこで軌道修正しなくてもいいと考えている。
話さえ見失わなければ。
何のために話を始めるのか。
終わる為である。
デジタルには時間軸がない。
我々は生まれて生きて死ぬ、
時間軸や因果関係を持つ生き物だ。
だからストーリーとは、究極のアナログであり、
人生であり、
人生に責任を取ることなのだ。
何故(良くできた)ストーリーが面白いのか。
それは、殆どの人生が、責任を取られないまま終わっていくからである。
だから、ストーリーにはきちんと決着がつき、
意味があったと感じたいのである。
そういうことをするべきストーリーというジャンルで、
「落ちなんて要らないんです」という奴は、死ね。
それは無能とイコールだ。
ということで。
あなたは何の話を始めるのか?
それを、どう終わらせる責任をとるのか?
まずそこからなのだ。
終わらせる責任は、シリアスでもギャグでも、
豪速球でもワンバンでも構わないぞ。
2017年03月26日
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