2017年03月26日

ストーリーとは、始めたことを終わらせる芸術である

若手のバカなクリエーターと話していると、
時々「落ちなんて要らないんです」というやつがいる。
「ライブ感みたいなことが大事で、
落ちを求めていない」なんてことも平気で言う。

それは、「自分は落ちのあることが出来ない」
という弱者の告白なのだ、と思うことにしている。
何故なら、落ちをつけるのも、才能だと思うからだ。
(生まれつきのものか、後天的に学べるのかは分からない)

そして多分ストーリーとは、
始めたことを終わらせる芸術である、と言えるのだ。



落ちなんて要らないという人の好むものは、
おそらく始まりも曖昧なものである。

明確に始まるのではなく、
気づいたら始まっていて、
終わりも意図的に終わるのではなく、
ただ時間切れで終わる、みたいな。

デジタルのものが増えてきて、
こういう傾向が増えたような気がする。

僕がそれを強く感じたのは、
ファレルウィリアムズの「Happy」という楽曲の、
「24時間PV」という企画を知ったときだ。
始まりがあり、終わりがある、音楽というものを、
ループ(これまたデジタル音楽が出してきた概念)
させてしまったのだ。
公式サイトでは、
延々とループするその音楽PVを見れる(今は知らない)。
そのダンスパートを素人募集し、
次々に上書きしていく仕組みもあった。
これには、
始まりも終わりもない。
螺旋のような進化もない。
ただそこにあるだけの、
動いているけれど一枚絵である。

時間軸がある音楽というものを、
時間軸のない一枚絵に閉じ込めてしまった、
画期的な考え方だと思った。

無限有線放送みたいなことか。


勿論、
それはそこまで深く考えて戦略を練ったわけではなく、
こういうのおもしろくね?
という発想でしかないだろう。
しかし、その無意識の発想は、
他人に伝わるし、言葉にならないまま集合的無意識になる。

デジタルは時間軸がない。
ものすごく縮めると、そういうことじゃないかと思う。

経年劣化がないと信じられている。
(物理的なHDDやサーバやケーブルは経年劣化するけれど、
データはそうではないから、デジタルは永遠である、
というのは一種の宗教だ)
自分は死んでも、HDDに貯めた画像は残ってしまうとか、
飯島愛のブログにまだコメントは書き込まれ続けているとか。


こういう発想が、
CMからストーリーを奪い、
バラエティーや音楽からストーリーを奪い、
ドラマや映画から、
ストーリーを奪って一枚絵に格下げしている原因ではないかと、
僕は考えている。
いや、犯人探しをしてもしょうがない。

一枚絵を発想することは、
わりと簡単に出来るのだが、
「始まらせたことを、きちんと終わらせる」
ことは、難易度が高いと僕は考える。
それは、一種の責任を取ることだからだ。

逆に言えば、一枚絵を考えることは、
無責任に出来る。

件の若手クリエーターは、無責任にこれまで仕事をしてきた。
そんな人に、始めてかつ終わらせる責任を追わせることは、
無理というものだ。
僕が無能だと一言で切る、その若手クリエーターは、
どうして怒られたのか分からないかも知れない。



ストーリーとは、
始めてかつ終わらせる芸術である。

終わらないストーリー(打ち切り、グダグダ、
どんどん詰まらなくなっていって見放される、
中途半端な所で、他のことが始まってしまい、
それもまた中途半端な所で、別のことが始まってしまう)
は、非難される。

始まらないストーリーも非難される。
(始めることは割と簡単だから、
あまり例はないかもしれない。
あるとすると、本題が始まらない、
デートの時の無難な会話とか?)

始めても終わりに向かわないストーリーも非難される。
(というより、そういうものは、大抵途中で詰まらなくなる)


つまり、
終わらせる為に始める。
終わりがなければ、始める意味がない。
終わりで責任を取れないのなら、
始めるべきではない。

ストーリーがもし一点からしかスタート出来ないのだとしたら、
それは終わり方の責任からである。
決して、
引き込まれるオープニングや、
興味深い大事件や、
過去のトラウマからではないのだ。


「落ちも見えていないのに話を始めてしまった」
なんて上級者は良く言う。
それはこの事を言っている。

逆に言えば、落ちが見えたら、
話を始めることが出来るのである。

そこに至るような始め方をすればよく、
かつ、なるべく面白おかしい始め方を思いつけばそれでよい。


途中は、常に「そう思ったでしょ。ところが」で、
上手く面白くすればいい。アドリブでやる人もいるだろう。
当初より勝手に膨らむこともよくある。
時々、終わりの方向に軌道修正すればいい。
これは終わりの方向が見えていないと出来ないことだ。

また、聞き手は、
その「終わりの方向に軌道修正している」
ということを、無意識に感じとる能力がある。
(自分の観客としての経験を思い出せばわかるだろう)

それを感じ取ったとき、
聞き手は、「この話は、ちゃんと終わりの方向に向かっている」
と、安心するのである。
逆に、
面白い「ところが」の連続で、
大変楽しいひとときを過ごしていても、
どこへ向かっているのか分からないなら、
そのうち不安になってくるというものだ。
「話を見失った」とは、そういう感覚だ。
話を見失ったのは、これ以上面白い「ところが」を思いつけない、
という状態のことではなく、
「どこへ向かって、次の面白いものを思いつくべきか分からない」
という状態のことである。

有名な、
第一ターニングポイント、第二ターニングポイントでの、
センタークエスチョンの確認というイベントや、
シドフィールドのピンチポイントは、
話を見失わないための、処方箋のようなものだ。
これだけで必ず大丈夫だ、
と僕は思わない。
話によっては、そこで軌道修正しなくてもいいと考えている。
話さえ見失わなければ。


何のために話を始めるのか。
終わる為である。

デジタルには時間軸がない。
我々は生まれて生きて死ぬ、
時間軸や因果関係を持つ生き物だ。
だからストーリーとは、究極のアナログであり、
人生であり、
人生に責任を取ることなのだ。

何故(良くできた)ストーリーが面白いのか。
それは、殆どの人生が、責任を取られないまま終わっていくからである。
だから、ストーリーにはきちんと決着がつき、
意味があったと感じたいのである。

そういうことをするべきストーリーというジャンルで、
「落ちなんて要らないんです」という奴は、死ね。
それは無能とイコールだ。



ということで。

あなたは何の話を始めるのか?
それを、どう終わらせる責任をとるのか?
まずそこからなのだ。

終わらせる責任は、シリアスでもギャグでも、
豪速球でもワンバンでも構わないぞ。
posted by おおおかとしひこ at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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