2017年03月28日

なぜ「ところが」が必要なのか

そう思って、そう結論するだけでは、
なぜダメなのか。

それは、極論すれば人間の性質ではないだろうか?


論文の書き方がある。

はじめに問題を述べ、
その解決(結論)を述べる。
あとは、ひたすら順接で、
その証明を書いていく。
最後にもう一度結論を述べ、
その結論の有効範囲も合わせて述べ、
この議論の限界も推定しておく。

これでは何故だめなのだろう。
ところがなんて、ひとつもないではないか。

ダメなのだ。
面白くないからだ。


論文は正しさがメインであり、
面白さはメインではない。

ストーリーは、面白さがメインであり、
正しさがメインではない。
(滅茶苦茶は論外だが、時に整合性があってなくても、
面白ければそれが通る)

その構造の差だ。


ためしに、「タイの逆ナン」を、
論文形式にしてみよう。


 これは、「うまい話には気をつけよう」という話である。
 Aさんが仕事でタイに行ったときのことだ。
 繁華街で美女に逆ナンされた。
 調子よくホテルに連れ込んだのだが、
 服を脱がせるとなんとオカマだった。
 しかし酔いと勢いで、まあいいやとやってしまった。
 次の朝、こわいおじさんに脅される。
 まんまと美人局に引っ掛かったというわけだ。
 タイ旅行でテンションが上がり、
 警戒心を失ってしまったのだろう。
 うまい話にのるのは、
 旅行先ばかりでなく、普段でも慎みたいものである。


急に、新聞の投稿欄のようになってしまったね。
あの面白味が急に失せて、
科学者の分析のような、報道のような感じだ。
なぜか。


それは、聞き手の想像を利用していないからである。


ストーリーとは、聞き手に疑似体験させることを眼目とする。
論理的正しさの追求や、
事実関係の把握や、
分析にはない。
逆に、冷静にさせてはならない。

まるでタイの繁華街で酩酊しているような気分にさせ、
美女に声をかけられて、
浮き足立つように、体験してもらう必要があるのである。

つまり、
疑似体験させることで、冷静さを奪うのだ。


論文調で書いた「タイの逆ナン」は、
最初に結論を述べている。
それを紐解くように本文が述べられる。

しかし、ストーリーでは最初に結論は述べない。
なぜ?
ネタバレだからだ。

ネタバレはストーリーの敵だ。
なぜ?
疑似体験を、冷静にさせてしまうからである。

最初に結論を言ってしまうと、
この先に出てくるあらゆる要素が、
何のために配置されているか明らかになってしまい、
疑似体験ではなく分析になってしまうのである。

逆に、論文とは、
疑似体験の主観的体験を諌め、
冷静に分析するための書き方だと言ってもよいのだ。
さらに逆に、
ストーリーの書き方とは、
冷静さを奪い、主観的な疑似体験に巻き込む方法論だと言える。


すなわち。
ネタバレは冷静の友であり、
疑似体験の敵である。


作者自らネタバレする意外にもネタバレはある。
聞き手の予測である。

聞き手は、今疑似体験している世界を、
五感を凝らして観察している。

どの情報が大事で、どの情報がいらないか。
どんな因果関係が潜んでいて、
どういう危険があるのか。
この先はどうなるのか。
最悪の場合、最良の場合。
それぞれに必要な条件。
それを、あらゆる、出てきた情報
(視覚聴覚以外にも、世界の仕組みや、言葉による情報も)
から総合して、
その先を予測する。
想像力によって。

一体何が起こっているのか。
一体どうなっているのか。
どうやればうまくいくのか。

感情移入さえしていれば、
主人公(やその他)の状況や行動を疑似体験することは、
簡単である。
(良くできたストーリーに限るけど)

聞き手は、自分の話ではないのに、
自分に置き換えて考えている。
それが疑似体験ということであり、
感情移入ということだ。

だから、その先を予測する。
こうであるからには、
こうであろうと。
想像力をフルに働かせて。


ストーリーは、体験である。
ストーリーは目で見たり耳で聞いたりするものだが、
実は頭の中で体験している。
想像力によってだ。

話は逸れるが、僕は3D映画にも8K映画にも反対だ。
何故なら頭の中での想像は、
想像力があれば3Dであり8K以上の解像度があるからだ。
良くできた物語は、
それ以上の想像力を私たちにかきたてる。
それは、因果関係とか過去の関係や未来像など、
時間軸や見えないものの存在についての想像力も含む。


さあ、そこで、
想像力によって聞き手が予想する「その先」が、
その通りになってしまったら、ネタバレと一緒だ。
すなわち冷静になってしまう。
これを「冷める」という。

冷めるとは、すなわち逆ナンされた興奮から、
社説のような論文に頭のモードが変わってしまうことを言う。
男子には賢者モードという言葉の方が伝わるかも知れない。
せっかくの疑似体験の感情的興奮が、
予想が当たってしまうことで、
なんだ、大体分かった、と、反省会に入り始める。
脳が冷静になり、総括をはじめてしまうのである。

「ところが」は、それを防止する。


さて。
先程の論文調の「タイの逆ナン」では、
主観的疑似体験を、わざと冷めさせるように書いていた。
下に示す、下線部だ。

 これは、「うまい話には気をつけよう」という話である。
 Aさんが仕事でタイに行ったときのことだ。
 繁華街で美女に逆ナンされた。
 調子よくホテルに連れ込んだのだが、
 ^^^^
 服を脱がせるとなんとオカマだった。
 しかし酔いと勢いで、まあいいやとやってしまった。
 ^^^^^^^^^
 次の朝、こわいおじさんに脅される。
 まんまと美人局に引っ掛かったというわけだ。
 タイ旅行でテンションが上がり、
 ^^^^^^^^^^^^^^
 警戒心を失ってしまったのだろう。
 ^^^^^^^^^^^^^^^
 うまい話にのるのは、
 旅行先ばかりでなく、普段でも慎みたいものである。


下線部のところは、実は第三者の解説部分である。
これが、ストーリーにはない部分だ。
ないとどうなるかというと、
聞き手が想像するのである。

ホテルに美女を連れ込むときの期待感。
少しの不安はあるけれど、目の前のくらくらする美女を見ていれば、
すぐ先のことしか考えられなくなる感じ。

酔ってる部分や勢いの部分は、
説明しなくとも分かるところ。

旅行先だから、の部分はもはや他人事としての解説であり、
事件の外に目が出てしまっている。
美人局に遭ったときにはショックで何も考えられず、
ずっと後日に反省する内容だ。
このパートを聞き手が想像するのは、
「話が終わったあと、訪れる一瞬の静寂のとき」である。
映画で言えばエンドロールのときだ。
これを、「余韻」という。

人は余韻の時に何を考えているのだろう。
酒の酔いに浸っているのではない。
人は余韻を味わうひとときの間に、
話を自分なりに反芻し、まとめて、記憶に格納しているのである。
(余談だが、だからエンドロールは黒バックであるべきで、
絵にロールを被せるのは無粋だと僕は思う)

話が終わったあとに訪れるひとときの闇。

その間に、私たちは最大の想像を働かせて、
主観的疑似体験から、
元の我々の人生に帰ってくる方法を探している。
元の人生を生きる私が、あのタイで美人局に遭った男から、
学ぶことはなんだろうと。

この場合は教訓なわけだが、
これが、ストーリーという構造だ。


だから、
ネタバレは興味と興奮を奪うし、
テーマを直接言ってはいけないのだ。

すべて、想像させるためなのである。

そして、
それらを直接言わなくとも、
暗に言ったことになっているストーリーが、
一番上等だと僕は考えている。



なぜ「ところが」が重要なのか。
冷静さを奪うためだ。
第三者の冷静な分析でなくし、
没入した主観的体験にするためだ。
その為には、想像力をフルに働かせてもらうのだ。
どうしたら働くのか。
予想が外れ、意外な方向に話が転がったときなのだ。

想像に想像を重ねて、
人はその先を想像していく。
それを、夢中になっている、というのである。



論文は、逆に、夢中を排除し、
正しいかどうかを考えるために冷静にならなればならない。

真逆のものを考えると、役に立つものである。
posted by おおおかとしひこ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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