2017年03月29日

音で言うメリット

前の続き。

音で言うことで、
リライトのおかしな箇所を、炙り出すことがある。


そもそもリライトが何故うまくいかないのか、
という疑問に対する完璧な答えが僕にはない。
うまいこといくリライトもあるし、
うまいこといかないリライトもある。
そして後者のほうが圧倒的に多い。
だから脚本作りの現場は迷走する。
あげくの果てが、今の邦画の脚本的惨状である。

なぜリライトは迷走するのか。
そのひとつは、
「文字ベースでリライトの判断をしてしまい、
音ベースでしていないから」だ、
という仮説を立ててみる。


どういうことだろう。
脚本は設計図だなんてよく言われる。
しかし、平面図ではない。
どちらかというと、糸に近い、
一次元的なもののはずだ。

一次元ということは、
一覧できないということである。
あなたは地図を見るように糸を見ることは出来ない。
前に進むか、後ろに進むことしか出来ない。
あそこからあそこに行ったり、
別のものを同時に見比べることは出来ない。

二次元的(あるいは三次元的)設計図なら、
一覧して比較することが可能だ。
文章をそのように出来ないのだ。
するためには、
サマリーや章立てという、論文的なことなら出来る。
しかしすでに論じたように、
ストーリーというのは、
論文とは真逆の構造を持っている。

さらに言えば、
脚本は音の一次元である。
この文章は上にスクロール出来て、
ある程度の一覧性を持っているが、
脚本は、
「その場で連続して行われ、
巻き戻しも一時停止も出来ないもの」
のことである。


それを、平面図のように考えてしまうことが、
リライトの失敗の原因ではないか、
というのが僕の仮説だ。

たとえば、
よくあるうまくいかないリライトに、
「ある要素とある要素をつぎはぎする」
「ある部分をコピーし、別のところへペーストする」
「ある要素とある要素をひとつのものにする」
などがある。
必ずうまくいかないわけではなく、
時々しかうまくいかないことは、
あなたも経験ずみのことだろう。

うまくいかない時、
やり方や考え方が悪いのではなく、
ストーリーという一次元のもの、
「あることのあとに、あることがあることで、
別の意味を生じるもの」
という整合性が保てているかどうかを、
平面図的な発想ではチェック出来ないのではないか、
というのが僕の見立てだ。

つまり、流れが本質であるものを、
静止した二次元的な手術をすることが問題なのではないか、
ということだ。

多くの手術では成功するだろうが、
たとえば心臓手術は、血の流れを止めずにやらないと死んじゃうよね。
流れと平面図の両方を考えなければ手術できないのが心臓だ。
それを、「血は流れないものとする」
と考えて手術しているのが、
平面図的な手術ということだ。

足の骨折はこれで治せるだろう。
実際には血やリンパは流れているだろうが、
それよりも平面図的なことのほうが欠陥として大きいだろうし、
それが治れば、流れもうまくいくだろうからである。

ところが心臓はそうはいかないわけである。


間違ったリライトは、
流れを伴う心臓手術をしなければならないところに、
パーツのプラモデル的な手術をして、
流れがめちゃめちゃになっているような感じではないかと、
僕は考えている。

それは、一次元の手術に、二次元の手術や見立てをしてしまったという、
ミスなのである。


ということで、
それをチェックする、
最も原始的で強力なのが、
「なにも見ずに、発声だけで話をしてみる」
ことなのである。

理屈がおかしかったり、
前後関係がおかしかったりすれば、
すぐに「ん?」と気づける。

それはそのリライトが、
パーツの表面的な手術だけで終わっていて、
深層に流れる一次元的な流れをうまくつなげられていない、
という証拠なのだ。


声に出すこと。
一度出したら永遠に消えてしまうもの。
永遠に消える前に次のものを出して、
それが消える前に次のものを出して。
その連続が言葉の発声であり、
ストーリーである。

平面上を行ったり来たりするように、
つまり絵を描くようには作ったり、改造できないのだ。
posted by おおおかとしひこ at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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