前の続き。
音で言うことで、
リライトのおかしな箇所を、炙り出すことがある。
そもそもリライトが何故うまくいかないのか、
という疑問に対する完璧な答えが僕にはない。
うまいこといくリライトもあるし、
うまいこといかないリライトもある。
そして後者のほうが圧倒的に多い。
だから脚本作りの現場は迷走する。
あげくの果てが、今の邦画の脚本的惨状である。
なぜリライトは迷走するのか。
そのひとつは、
「文字ベースでリライトの判断をしてしまい、
音ベースでしていないから」だ、
という仮説を立ててみる。
どういうことだろう。
脚本は設計図だなんてよく言われる。
しかし、平面図ではない。
どちらかというと、糸に近い、
一次元的なもののはずだ。
一次元ということは、
一覧できないということである。
あなたは地図を見るように糸を見ることは出来ない。
前に進むか、後ろに進むことしか出来ない。
あそこからあそこに行ったり、
別のものを同時に見比べることは出来ない。
二次元的(あるいは三次元的)設計図なら、
一覧して比較することが可能だ。
文章をそのように出来ないのだ。
するためには、
サマリーや章立てという、論文的なことなら出来る。
しかしすでに論じたように、
ストーリーというのは、
論文とは真逆の構造を持っている。
さらに言えば、
脚本は音の一次元である。
この文章は上にスクロール出来て、
ある程度の一覧性を持っているが、
脚本は、
「その場で連続して行われ、
巻き戻しも一時停止も出来ないもの」
のことである。
それを、平面図のように考えてしまうことが、
リライトの失敗の原因ではないか、
というのが僕の仮説だ。
たとえば、
よくあるうまくいかないリライトに、
「ある要素とある要素をつぎはぎする」
「ある部分をコピーし、別のところへペーストする」
「ある要素とある要素をひとつのものにする」
などがある。
必ずうまくいかないわけではなく、
時々しかうまくいかないことは、
あなたも経験ずみのことだろう。
うまくいかない時、
やり方や考え方が悪いのではなく、
ストーリーという一次元のもの、
「あることのあとに、あることがあることで、
別の意味を生じるもの」
という整合性が保てているかどうかを、
平面図的な発想ではチェック出来ないのではないか、
というのが僕の見立てだ。
つまり、流れが本質であるものを、
静止した二次元的な手術をすることが問題なのではないか、
ということだ。
多くの手術では成功するだろうが、
たとえば心臓手術は、血の流れを止めずにやらないと死んじゃうよね。
流れと平面図の両方を考えなければ手術できないのが心臓だ。
それを、「血は流れないものとする」
と考えて手術しているのが、
平面図的な手術ということだ。
足の骨折はこれで治せるだろう。
実際には血やリンパは流れているだろうが、
それよりも平面図的なことのほうが欠陥として大きいだろうし、
それが治れば、流れもうまくいくだろうからである。
ところが心臓はそうはいかないわけである。
間違ったリライトは、
流れを伴う心臓手術をしなければならないところに、
パーツのプラモデル的な手術をして、
流れがめちゃめちゃになっているような感じではないかと、
僕は考えている。
それは、一次元の手術に、二次元の手術や見立てをしてしまったという、
ミスなのである。
ということで、
それをチェックする、
最も原始的で強力なのが、
「なにも見ずに、発声だけで話をしてみる」
ことなのである。
理屈がおかしかったり、
前後関係がおかしかったりすれば、
すぐに「ん?」と気づける。
それはそのリライトが、
パーツの表面的な手術だけで終わっていて、
深層に流れる一次元的な流れをうまくつなげられていない、
という証拠なのだ。
声に出すこと。
一度出したら永遠に消えてしまうもの。
永遠に消える前に次のものを出して、
それが消える前に次のものを出して。
その連続が言葉の発声であり、
ストーリーである。
平面上を行ったり来たりするように、
つまり絵を描くようには作ったり、改造できないのだ。
2017年03月29日
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