音の話、さらに続き。
つまりストーリーは、平面ではなく、
音楽に似ている。
だから、盛り上がったり盛り下がったり、
というリズムが存在する。
これを実感することは難しい。
とくに直せば直すほどにだ。
第一稿を書いた直後、
自分の興奮した部分と、
書けなくて辛かった部分は、
直後ならば覚えている。
(僕が手書きを推奨するのは、
それがリアルな字の感じで思い出せるからである。
タイプした文字が第一稿だと、
作者のノリとか辛さとか楽しさが伝わってこなくなる)
それは、第一稿のときは、
自分=観客でもあったからだ。
しかしリライトすればするほど、
自分と観客の立場を分離していく。
こうしたいとか、こうあるべきだ、
という理屈で手術をし、
いつの間にか「はじめてこれを見る人の視点」
を失ってしまう。
(これを防ぐために、3週間一切見ずに忘れて、
白紙に戻って何も知らない人の視線を取り戻す、
という方法論を僕は推奨しているが、
プロの現場で3週間休むことは困難だ。
2週間ではまだ忘れきれてないんだよなあ)
とくに、手術をしたところほど、
盛り上がりのリズムがおかしくなっていることが多い。
グルーヴは理屈で発生するものではなく、
今この感じ、という感情で発生するものだからだ。
その盛り上がりの感じを理屈で直すと、
大抵盛り下がる。
こうしてリライトは、作品をダメにしていくのである。
これを防ぐには、
音読をおすすめする。
(出来れば原稿を一切見ないで読むのがいいのだが、
それは長いものほどしんどいので、
見てもよいとしよう)
そうすると、自分の作品が、
リズムが整い盛り上がっていく部分があることに気づくはずだ。
いい音楽を聞こう。
そんな感じのグルーヴを、あなたの作品も持たなければならない。
いい音楽は、ずっとアッパーチューンだろうか?
いや。
盛り上がるべきところは盛り上げて、
一回クールダウンしてしっとりさせて、
再びノリを作って、最後盛り上げていくはずだ。
そういう風に、あなたの作品もあるべきなのだ。
そういう風にリライトはするべきだし、
そういう風にするためには、
通しの音読が、なかなか効果的なのである。
第四章に入った、毎週発表版の「てんぐ探偵」であるが、
発表順を間違えた所が多々あると、今反省中だ。
元々5話1ブロックで構成されていたものを、
13話1ブロックに再構成したため、
リズムがおかしなことになっていることに、
最近ようやく気づいた。
特に1章の2話から12話まで、
2章の中盤から後半がしんどい気がする。
勝負のミッドポイント、「遠野SOS」前の盛り上がりが作れていなくて、
すぐに盛り上がりが来てしまった気がしている。
3章の前半はそのクールダウンのつもりで用意したのだが、
2章のギクシャクを寒くさせるだけに効いてしまっている。
4章の立ち上がりも、立ち上がりきれていない。
トップバッターに「リスク」はスナックすぎた。
構成というのは難しい。
13話のリズムを僕は風魔でわかっているはず、
という慢心があり、
通しで音読、という基本を怠っていたことを反省している次第だ。
56話の通し音読をやれば、それは分かったはずなのに、
その手間の手を抜いてしまったわけだ。
実際、一回に20時間ぐらいかかり、それを何バージョンか試すのを、
僕は面倒くさがったのである。
芝居はなぜ何ヵ月も通し稽古をするのか。
「最初から最後までのグルーヴ」を作るためなのである。
ここはこうしておいたから、こうなっているはずだ、
というのは理屈による予測に過ぎない。
実際のところは、
その理屈の予測以外の何かのリズムの異変のほうが、
よく起こることだというのに。
先週から夏編が始まっていて、
ここから最終回までのグルーヴには自信があるのだが、
脱落した人が多いのは悲しい。
温い目で見守ってやってください。
音読しよう。
どんなに長くても。
自分の中でグルーヴを作りながら音読しよう。
どこで盛り上がるのか。
どこでクールダウンするのか。
盛り上がりのヤマをもっと大きく出来るか。
うねりはもっと作れるか。
クールダウンの谷をもっと深く出来るか。
次の盛り上がりを予感させるクールダウンか。
そういうリライトをするのが、
理想のリライトである。
「自分の思ってることと違うことを、
直したい」という衝動で直したり、
「脚本理論的に、理屈ではこう直すべきである」
と直したりしたとしても、
合っているときも間違っているときもある。
しかもそのような近視眼的直しが、
巨視的に影響を与え、
全体のノリに壊滅的ダメージを与えたり、
グルーヴがおかしなことになっている、
ということを認識することは中々難しい。
(逆に直したところが突出してよくなりすぎ、
周囲のものとアンバランスになり、
一番の盛り上がりが逆に盛り下がることだってある)
聞き手は、その部分の所も見ているけれど、
結局は全体の場のノリ、
グルーヴに身を浸している。
それが心地よければその場にとどまりたがるし、
最後までその起伏が気持ちよければ、
「もっと」を要求するものだ。
そのすべてを、あなたはリライトで感じなければならない。
それを感じるのが、通し音読(演劇における通し稽古)
ではないかと僕は今考えている。
通し稽古という、最も原始的で辛く、アナログな方法が、
結局は一番だと僕は思う。
何故なら私たちはデジタルの存在ではなく、
ひとつの時間を生きる、アナログな存在だからである。
(もっとも、スマホ依存や視野狭窄というデジタルの病もあり、
我々はかつてない非アナログ的存在となろうとしているのではあるが)
ということで。
読了20時間だろうが、
2時間映画だろうが、
30分だろうが、
5分だろうが15秒だろうが、
やることは変わりない。
最初から最後まで、通しで音読(演じてもいい)して、
その盛り上がりのリズムを、把握することである。
盛り上がりのリズムは、頭じゃなくて体感であり、
聞き手は頭だけじゃなくて体感としても、
そのストーリーを感じている。
ストーリーを受けとるという行為は、
実は頭の中で「体験を構築している」からである。
ストーリーは体験だ。
そんなことを手垢がつくぐらいに聞いたはずなのに、
自分がつくるときには、
そんなことは忘れている。
忘れてはならない。
体験ということはどういうこと?
陶芸体験教室とかに行ってみればヒントがあるかも。
自分はそれをどう体験したのか、考えてみるとよい。
そのような感じで、聞き手はあなたのストーリーを体験する。
2017年03月30日
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