私たちは、その物語を、最終的にどう記憶するのだろうか。
僕は、一次元的なストーリーは記憶できず
(短い一文に圧縮したログライン的なものや、
おおまかなあらすじとしての圧縮されたプロットならば、
人によっては可能だが、それは慣れていないとできない)、
写真とか点でしか記憶できないという仮説を立てている。
でも「ストーリーのあの感じ」みたいな記憶はあるような気がする。
それはどういう記憶だろうか。
僕は、それが「人物の記憶」ではないかと思う。
ある話を思い出し、味わうとき、
私たちは主人公やお気に入りのキャラクターのことなら、
いくらでも思い出すことができる。
ドラマ風魔なら、
小次郎中心に思い出したり、
竜魔と蘭子中心に思い出したり、
壬生と陽炎中心に思い出すことが出来る。
小次郎中心に思い出す時、
絵理奈とのことがメインか、姫子とのことがメインか、
麗羅メインかでそのイメージは異なり得る。
しかしそれは一緒くたにして「小次郎の記憶」として語られる。
壬生のことについても同様で、
壬生と武蔵中心に記憶するのか、
壬生と陽炎中心にするのかで、大きく違うのだろうけど、
とにかく壬生が風魔という物語の記憶(イコン)になるということだ。
ドラマ風魔の特質は、
キャラクターが重層的にサブプロットを形成し、
それらすべてが面白いという奇跡のバランスを持っていることではないかと思う。
だから結果的に、
風魔のファンは、
自分のお気に入りのキャラクター中心に語るのではないかな。
つまり、
風魔全体を、そのキャラクターをイコンとして記憶していることになるわけだ。
ところで、
本来、ストーリーというものは、
「キャラクターの変化」という大筋を持っている。
ストーリー開始前と、途中と、終わったあとでは、
キャラクターは別人格のようになる。
むしろ、
「別人格になるぐらい凄い経験をすること」
を描くのがストーリーというものだ。
では、そのキャラクターとしてその物語を記憶する場合、
「どの時点のキャラクターで記憶しているか」
で、イコンは異なるものになる筈だ。
たとえば変化の著しい小次郎は、
「どの時点での小次郎が小次郎のイメージに決定的」か。
1 初登場時のお調子者で無鉄砲な感じか。
2 竜魔が倒れ、責任を自覚したあたりだろうか。
3 姫子に告白したあとだろうか。
4 麗羅を失い、風林火山を使えるようになったあとだろうか。
おそらくだが、1の人と4の人がいて、
2と3の人はいないんじゃないか。
つまり、
「初登場時」か「ラスト」がそのキャラクターのイメージになる、
というのが僕の仮説だ。
人はそのキャラクターの記憶で物語を記憶する。
それは大抵初登場のイメージか、終わったあとのイメージのどちらかで、
その人の軌跡を頭の中で再構築することでしか、
ストーリーを追いかけられない。
これが僕の仮説だ。
だから、
あるストーリーに何故魅了されたか、
という回答に、そのキャラクター、としか答えられないのではないか。
(世界観や設定に魅了された場合、
ストーリーが気にいったわけではないことが多いと思う)
おそらく人の記憶の水面下で、
このようなことが起こっていると感じる。
だから。
あなたの物語は、
どんなに面白いサブプロットを組んだり、
どんなに面白い展開を用意したり、
焦点とターニングポイントをいかにうまく作ったとしても、
それらがそのように(専門家以外に)記憶されることはない。
それよりも、魅力あったキャラクターとして記憶され、味あわれる。
逆説的に、
ストーリーが面白くても、
キャラクターが普通なら、
面白い体験ではあったが、記憶に残る人物はいなかった、
という記憶のされかたになるということだ。
だから、
あなたはまず、
どんな人物であっても、面白いというストーリーを作りなさい。
次にすることは、人物のキャラクターを立てて、
魅力的な人物のストーリーとして作り直すことである。
キャラクターが先だと、それは中々うまくいかないことは、
あなたは既に経験済みであろう。
(なぜか。ストーリーには目的が必要であり、
キャラクター設定から目的が発生するわけではないからである。
目的は常にキャラクターの外部からやってきたものとの、
相互作用の結果うまれる)
だから、「魅力的なキャラクターを作りなさい」というのは、
妥当なアドバイスでもあり、間違ったアドバイスでもあると思う。
ときどき、「シグルイ」のことを思い出す。
伊良子と藤木はどうすれば良かったのだろうと、
思いめぐることがある。
しかしそれはどうしようもなかったこてであり、
彼らなりにベストを尽くした結果、
ああならざるを得なかったのだなあ、
とあの結末にたどり着いてしまう。
ストーリーというものはそうあるべきだ。
他の可能性があってはだめだ。
彼らはベストの選択をした結果、そうなったのだ、
という風になっていなければならない。
だからあとあと思い出し、
何度も何度も反芻して楽しむことができるのである。
しかしその構造が意識されることは、専門家以外にない。
思い出すのは、キャラクターのみである。
私はこの話のキャラクターに魂を奪われた。
そういう人は沢山いても、
このストーリー構造に魂を奪われた、
という人はなかなかいない。
それは、おおむねこういう訳ではないかと思う。
2017年04月01日
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