前記事までの議論から、
ストーリーを論理的に書く、ということを考えてみる。
設定、目的、行動、その結果、
という要素にわけてみるわけだ。
設定:
今現在の世界のステータス、のような。
世界観、人物設定(中身、立場、人間関係)、
起こっている事件のステータス、
みたいなものだとしよう。
何もしない限りこれは変わらない場合と、
何もしなくてもステータスが変化する場合(例:火事)がある。
たとえばドラえもん世界などの「日常世界」は、
ほとんどが前者を前提としていて、
映画版のときに後者になりやすい。
つまり、世界は脆い。脆いからこそ行動の必要性が出てくるわけだ。
設定は、初期設定のこと以外に、
各人物の行動によって、世界に加えられた変化を含む。
つまり、
世界は、
ほっておいたら何も変わらないか、
ほっておくと勝手に変わってしまうか、
人物の行動の結果、変更可能なものである。
大きく変わる部分が大ターニングポイントになるだろう。
私たちはほぼ現実の写像として、架空の物語の世界を見ているが、
特殊な世界(SFやファンタジーや我々の日常とかけ離れた世界)
においては、独特のルールがある。
目的:
世界をどうにかしたいと思う結果のイメージ。
大目的のほかに小目的や中目的もある。
行動:
目的に直結する場合、迂回する場合、段階を踏む場合がある。
行動の結果:
何も変わらないか、世界に影響を与えるか。
「やったか?」「やってない」「いや、見ろ!」
プレイヤーは、主人公だけでなく、複数いる。
これらは異なる目的(世界、人、人間関係、事件をどうしたいか)を持っている。
ストーリーというのは、
世界が今の世界と異なり始めたところからスタートして、
もとに戻らない永遠の変化を遂げて安定したところがゴールだ。
複数のプレイヤーが行動し、世界を変更しあい、
最終的な安定へ収束するさまを、
順に(伝統的)、または任意の順で描くことを言う。
このとき、主人公サイドから見たものがストーリーである。
俯瞰した客観状況は、挿入される場合もされない場合もあり、
主人公の認識と客観状況があっている場合もあっていない場合もある。
おそらくは、
このような形式でストーリーを描写すれば、
ストーリーは純粋に論理的に書けるのではないだろうか。
それはつまり、因果関係をレポートする新聞記事のようになるわけだ。
(主人公目線だから、主人公サイドのルポかも知れない)
論理的因果関係だから、感情が入ってはいけない。
悔しかったとか笑ったとか、喜びとかは、無視だ。
ただし「快のために」は立派な動機や目的になる。
出来の悪いストーリーは、
「何故?」が多い。
それはすなわち、論理的因果関係がおかしい、ということである。
「なんでこうなったの?」「何が起こってこうなったの?」
「なぜこの人はこうしたの?」「なぜこの人は他の○○をしないの?」
「なぜこの人は何も言わないの?」
「なぜ奇跡ばかり起こるの?」
「こうだとしたら、あれは変じゃない?」
などなど。
それは、感情ばかり描いていて、
ストーリーが破綻しているのだ。
ストーリーは矛盾か矛盾じゃないかでしか、
評価されない。
この仮説が合ってるとすれば、
あなたはまずプロット段階で、
これだけの論理的因果関係の構造を作っておかなければならないのだ。
キャラの感情やその移入は、
その上に咲く花なのである。
人物や世界観ばかり作っていても、
ちっとも話が進まないのは、
このような行動と因果関係のことを作っていないからである。
因果関係とか論理は、
数学とか物理とか、とにかく理系のことばだ。
ストーリーは文系のものではない。
左脳と右脳と両方使わないと出来ないと思う。
この記事はとりあえず左脳に全ふりしている。
そういえば、
リライトをしたときに一番よくあることが、
「なんか変になった」という印象だ。
それは勿論、右脳的なノリとかグルーヴのこともあるし、
左脳的な因果関係や理由がおかしくなったこともありえる。
「変」という違和感が、
どちらを指しているかを突き止められれば、
直すべき目標が明確になる。
何かを削ったり足したりしたときの「変」という違和感は、
大体において合っている。
その違和感の正体を、論理的因果関係に求めると、
大体合ってることが多いね。
2017年04月02日
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