2017年04月04日

その妄想はどれくらい正確か

頭の中の、壮大で素敵な妄想。
私たちはそれを形にするのが仕事である。

しかし待てよ。
その幸せな妄想は、
妄想だから面白いので、
形にしたらひどく詰まらないことがある。

なぜだ?
何故妄想は、現実化すると途端に覚めるのか?


それは、夢に似ているからかも知れない。

夢はそのときはとても面白くて、
興奮して、リアリティーがあるのに、
覚めたら途端に嘘っぽくなる。
これは私たちの妄想と原稿の関係に、
とても似てやしないだろうか?


で。

そもそもその妄想を疑おう、
という話だ。

僕の大好きな話に、
みうらじゅんがイベントでやった、
「エアセックス選手権」というのがある。
エアギターが流行ってたときに、
被せてやったバカバカしいトーナメントだ。
もちろん、なにもない空間で、
一人でセックスを演じて、
「ああ! 何もないのにセックスが見える!」
という遊びなわけである。

この話のハイライトは「童貞の部」を作ったことで、
出場者は全員童貞というところが面白い。
妄想のなかで女をいかせまくる、
そのズレを我々大人が酒の肴にするわけである。
その面白いポイントは色々あって、
大抵は、おっぱいの位置がおかしいのだそうだ。
こういう体勢の時に届かねえだろ、
という位置におっぱいがあったりするらしい。

つまり、
これは、
我々の妄想と現実の原稿に似ている。



妄想が楽しいのは、
現実の制約を外れるからである。
おっぱいがそこになくても、おっぱいが触りたいんだから、
そこにおっぱいがあるのだ。
だから楽しいのだ。

僕はそこにおっぱいがあることを責めたりしない。
妄想の力こそ、創造の源である。
エアセックス選手権乱交編童貞の部なら、
さらにリアリティーのない妄想が炸裂するのではないか?
それはそれで、一向にかまわんのだよ。

しかし。
それが人前で表現として存在するならば、
現実の制約を受けるのである。

何故なら人前とは、現実だからである。
夢から覚めたら、現実がやって来るからである。
だからそこにないおっぱいが嘲笑の対象になるし、
夢は途端に輝きを失うし、
私たちの妄想は、原稿で縮こまっていくのである。


私たちは、
妄想と現実の橋渡し人である。
妄想側の面白さも知り、現実側の面白さも知らなければならない。

妄想を、現実に翻訳する仕事だと思ってもよい。
妄想の言葉を妄想のまま語ってはだめで、
妄想の言葉を、現実世界の言葉にうまく翻訳しなければ、
現実世界には通用しないのである。


夢は面白い。
妄想は面白い。
それが現実に来たとしても、
現実の制約を受けない、
つまり現実にありそうにしていくこと。

それが私たちの仕事である。


「超能力がある」という妄想に対して、
その妄想にリアリティーをつけるためには、
「脳は30%しか使っていないため、
残り70%に眠っている能力があるのだ」
という設定が80年代よく使われていた。
これは最近の脳科学によって、
一度に発火しているのが30%であり、
平均するとどの部位も使われている、
という夢のない結果が得られている。
(だとするとこれを利用して新たな超能力の根拠のリアリティーをつくれば…)
「CIAが研究所していた」
「ロシアの特殊な村にそういう遺伝子を持つ子供がいる」
「中国の奥地に、それを伝承している村がある」
などなど、
とにかくリアリティーの理由づけをしていく。

それは、ひとつの妄想を、現実とどうにか橋渡ししようとすることに他ならない。
「リアリティーがないから、その妄想は意味がない」
と切り捨てるのは凡人だ。
「その妄想は面白いから、リアリティーを持つにはどう世界をつくればいいか」
と考えるのが我々である。


おっぱいがそこにあるのは不自然だが夢のようだとすれば、
副乳にしてもいいし、3Pという設定にしてもいいし、
揉むためだけのおっぱいマシーンがそこにあってもいい。

ガンダムは、「ロボットのバトルが見たい」という妄想を実現するために、
「有視界戦闘の必要がある。
何故ならレーダーが効かないミノフスキー粒子なるものがあるからで、
それは人類の核戦争の結果産み出された変異粒子である」
なんて設定で、リアリティーを作っていくわけだ。
さらに言えば、
「それは過去コロニー落としなどの非人道的行為の結果であり、
反省した人類は、核禁止コロニー落とし禁止などの、
南極条約を結んでいる」
ということでその世界のリアリティーをつくり、
それは79年以降いまだに基本設定のひとつとなっている。
(最近のガンダムは知らないけど)

実際、この設定は作中であまり使われていないのが惜しい。
オデッサで核弾頭ぶったぎった時ぐらいかなあ。
あまり大きなストーリーに影響なかった、
ネタのひとつ程度だね。



私たちは妄想する。
夢が現実を見て、縮こまってしまってはいけない。
現実が夢を見て、楽しまなければならないのだ。
だから、その梯子をうまくかけてやればいいのだ。

どうやって?
現実を知ることで。妄想を続けることで。
妄想と現実をよく知ることで、
二つの間の架け橋を探す(捏造する)のである。
我々は、うまいことやる翻訳者なのである。
posted by おおおかとしひこ at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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