頭の中の、壮大で素敵な妄想。
私たちはそれを形にするのが仕事である。
しかし待てよ。
その幸せな妄想は、
妄想だから面白いので、
形にしたらひどく詰まらないことがある。
なぜだ?
何故妄想は、現実化すると途端に覚めるのか?
それは、夢に似ているからかも知れない。
夢はそのときはとても面白くて、
興奮して、リアリティーがあるのに、
覚めたら途端に嘘っぽくなる。
これは私たちの妄想と原稿の関係に、
とても似てやしないだろうか?
で。
そもそもその妄想を疑おう、
という話だ。
僕の大好きな話に、
みうらじゅんがイベントでやった、
「エアセックス選手権」というのがある。
エアギターが流行ってたときに、
被せてやったバカバカしいトーナメントだ。
もちろん、なにもない空間で、
一人でセックスを演じて、
「ああ! 何もないのにセックスが見える!」
という遊びなわけである。
この話のハイライトは「童貞の部」を作ったことで、
出場者は全員童貞というところが面白い。
妄想のなかで女をいかせまくる、
そのズレを我々大人が酒の肴にするわけである。
その面白いポイントは色々あって、
大抵は、おっぱいの位置がおかしいのだそうだ。
こういう体勢の時に届かねえだろ、
という位置におっぱいがあったりするらしい。
つまり、
これは、
我々の妄想と現実の原稿に似ている。
妄想が楽しいのは、
現実の制約を外れるからである。
おっぱいがそこになくても、おっぱいが触りたいんだから、
そこにおっぱいがあるのだ。
だから楽しいのだ。
僕はそこにおっぱいがあることを責めたりしない。
妄想の力こそ、創造の源である。
エアセックス選手権乱交編童貞の部なら、
さらにリアリティーのない妄想が炸裂するのではないか?
それはそれで、一向にかまわんのだよ。
しかし。
それが人前で表現として存在するならば、
現実の制約を受けるのである。
何故なら人前とは、現実だからである。
夢から覚めたら、現実がやって来るからである。
だからそこにないおっぱいが嘲笑の対象になるし、
夢は途端に輝きを失うし、
私たちの妄想は、原稿で縮こまっていくのである。
私たちは、
妄想と現実の橋渡し人である。
妄想側の面白さも知り、現実側の面白さも知らなければならない。
妄想を、現実に翻訳する仕事だと思ってもよい。
妄想の言葉を妄想のまま語ってはだめで、
妄想の言葉を、現実世界の言葉にうまく翻訳しなければ、
現実世界には通用しないのである。
夢は面白い。
妄想は面白い。
それが現実に来たとしても、
現実の制約を受けない、
つまり現実にありそうにしていくこと。
それが私たちの仕事である。
「超能力がある」という妄想に対して、
その妄想にリアリティーをつけるためには、
「脳は30%しか使っていないため、
残り70%に眠っている能力があるのだ」
という設定が80年代よく使われていた。
これは最近の脳科学によって、
一度に発火しているのが30%であり、
平均するとどの部位も使われている、
という夢のない結果が得られている。
(だとするとこれを利用して新たな超能力の根拠のリアリティーをつくれば…)
「CIAが研究所していた」
「ロシアの特殊な村にそういう遺伝子を持つ子供がいる」
「中国の奥地に、それを伝承している村がある」
などなど、
とにかくリアリティーの理由づけをしていく。
それは、ひとつの妄想を、現実とどうにか橋渡ししようとすることに他ならない。
「リアリティーがないから、その妄想は意味がない」
と切り捨てるのは凡人だ。
「その妄想は面白いから、リアリティーを持つにはどう世界をつくればいいか」
と考えるのが我々である。
おっぱいがそこにあるのは不自然だが夢のようだとすれば、
副乳にしてもいいし、3Pという設定にしてもいいし、
揉むためだけのおっぱいマシーンがそこにあってもいい。
ガンダムは、「ロボットのバトルが見たい」という妄想を実現するために、
「有視界戦闘の必要がある。
何故ならレーダーが効かないミノフスキー粒子なるものがあるからで、
それは人類の核戦争の結果産み出された変異粒子である」
なんて設定で、リアリティーを作っていくわけだ。
さらに言えば、
「それは過去コロニー落としなどの非人道的行為の結果であり、
反省した人類は、核禁止コロニー落とし禁止などの、
南極条約を結んでいる」
ということでその世界のリアリティーをつくり、
それは79年以降いまだに基本設定のひとつとなっている。
(最近のガンダムは知らないけど)
実際、この設定は作中であまり使われていないのが惜しい。
オデッサで核弾頭ぶったぎった時ぐらいかなあ。
あまり大きなストーリーに影響なかった、
ネタのひとつ程度だね。
私たちは妄想する。
夢が現実を見て、縮こまってしまってはいけない。
現実が夢を見て、楽しまなければならないのだ。
だから、その梯子をうまくかけてやればいいのだ。
どうやって?
現実を知ることで。妄想を続けることで。
妄想と現実をよく知ることで、
二つの間の架け橋を探す(捏造する)のである。
我々は、うまいことやる翻訳者なのである。
2017年04月04日
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