幽霊はいるのか?
いるかも知れないし、いないかも知れない。
僕は科学者だから、
いないと確定していないものをいないと言わないし、
いると確定していないものをいるとも言わない。
「どちらも確証がない」と言う。
その「どちらとも言えない不安」こそ、
幽霊の正体ではないかと思う。
逆に言うと、人間には、断言したいという隠れた欲望がある。
そして、物語を駆動する力は、
不安を断言にしていく過程である。
某県にバイクで走りにいった知り合いの話。
夜不気味なトンネルを抜けたところで、
後ろから来たパトカーに止められた。
「だめだろう、後部座席もヘルメットが義務だ」
「えっ」
「ところで、後部座席の女はどこへ行ったんだ?」
その人はずっと一人で走っていたのに。
これを、
「トンネルで死んだ女の幽霊が出た」と解釈することも出来るし、
「警察が暴走バイクを減らすために、
わざわざそういう嘘をついて怖がらせている」と解釈することも出来るし、
「単なる警官の見間違い」と解釈することも出来るし、
「その人は狂っていて、女を乗せてはいた」と解釈することも出来る。
この全ての解釈は、
「真の状況が見えない不安」を、
「こうだったのだと分かった」と断言することで解釈している。
分からないことを不安という駆動力にして、
それが断言される方向へいくこと。
これが物語の駆動力ではないかと思うわけだ。
実際、
○○であったのだ、と確定してしまえば、
安心するわけだ。
安心すると同時に、我々はこの話の謎を知りたいという気持ちを失う。
つまり、話は終わったわけである。
逆に、話がまだ終わっていないとは、
全てが確定したわけではないという、
聞き手の気持ちなのである。
「最初に強烈な謎をふれ」という格言めいたものがあるけど、
それはこのことの半分を言っているわけだ。
僕は謎をふることよりも、
謎解きや結論を考えるほうが遥かに大変だから、
責任の取れない謎ふりはするべきでない、
と極めて常識的に警告するだけだ。
ところで。
下手くそは、謎をふって回収しない。
あるいは、
下手くそなので、途中で謎をふったことになってしまい、
それを回収せずに終わってしまう。
(たちの悪いのは、エヴァのように、
意図的に謎だけふって回収しない。
それは詐欺行為だよな)
謎があると、聞き手はそれを断言してほしくてじっと待つ。
不安を解消してほしいわけだ。
しかし下手くそは、
自分でふった謎を断言しきれなかったり
(例:ガンツの最終回)、
下手くそゆえに謎になってしまった、
分かりにくい部分を謎のまま終わらせてしまったりする。
これはゴーストだ。
物語を断言しきれない、ゴーストだ。
さあ、幽霊退治にでかけよう。
聞き手を不安という幽霊に付き合わせて、
付き合わせっぱなしにしてはいけない。
幽霊に会わせたら、必ず正体を暴かなければならない。
それは、嘘をつく者として、
当然の責任である。
あなたは断言しなければならない。
断言したら、幽霊というふわふわしたイメージは、
ひとつの小さな現実に縮退してしまう。
それが怖くて断言を避ける、矮小な創作者もいる。
(それは詐欺行為を働くインチキ野郎だ)
物語を駆動させる力は、ゴーストだ。
そしてあなたは、それらのゴーストを一匹たりとも逃さずに、
見事に退治して見せなければならない。
それが物語だ。
たとえば浦沢直樹の漫画は、
ゴーストだけを振り撒いて責任を取らない、
詐欺行為であることがほとんどだ。
狼少年はいずれ飽きられて捨てられる。
おそらく、庵野も。
あなたの物語は、どのようなゴーストがいるか。
それをどう見事に断言して解消しているのか。
バイクの話は、不安で終わる。
ゴーストを振り撒くだけの話を怪談といい、
これは半ストーリーであると僕は思う。
県警の暴走族取り締まりの嘘であった、
というリアリティーある落ちで、
僕はこれをストーリーとしてしまうとしよう。
2017年04月04日
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