ストーリーに慣れた人が増えると、
怪談も増える。
怪談はつまり、ストーリーへのカウンターカルチャーだからである。
ストーリーとは、全てが因果関係で繋がっていること。
論理的一貫性があり、全てに疑問の余地がない、
全部明らかにされたもの。
スッキリする。
怪談はその逆だ。
どこか繋がってなくて、どこかがおかしい。
全て説明がつかない。
だから不気味で、怖い。
怖がるのが目的だ。
世の中にストーリーが溢れたら、
逆張りをする人も増えてくる。
理解の逆、理不尽で楽しませようというものだ。
で、怪談が飽きてくると、
怪談に見せかけたストーリーもの、なんてのも出てくる。
「黄泉がえり」なんてのはその典型だ。
泣ける怪談なんてジャンルもあるよね。
あるいは、「意味がわかると怖いコピペ」なんてジャンルもある。
一見なんでもないコピペに、
分かると怪談が入っているという仕組み。
論理的整合性のないものの中に、
論理的整合性があることがわかり、
その内容(怪談)自体には論理的整合性がないという怖さ。
逆張りの二重構造なわけだ。
エヴァンゲリオンは、
論理的整合性を取ることが常識だった、
ヒーローロボットものに、
怪談(破綻)を持ち込んだ最初の例である。
(バルディオスのほうがオンエア的には先だが、
打ちきられていなければ整合性はあった。
なにせオンエアで絶滅エンドは衝撃的だ)
パイオニアというのは、
うまくいけば絶賛される。
「怪談をここに持ち込むとは新しい」
という絶賛のされ方ではなく、
「幽霊の正体さがし(破綻を繕おうとする理性。
現在の言葉では考察と呼ばれる)」
がブームだったのだが。
しかし幽霊の正体見たり枯れ尾花であって、
そこに論理的整合性がないと分かれば、
面白くもなんともないのである。
怪談のキモは、
「分かるかもしれない」という、
謎解きの進行の雰囲気である。
何故ならそこまでは、ストーリーの形をしているからだ。
強烈な謎(例:幽霊の存在)をふりまいておいて、
その正体に論理的整合性を求めていくこと、
それはストーリーそのものである。
怪談の面白いところは、
強烈な謎だ。
ふつうのストーリーでは、
謎は解かれなければならないから、
「解ける謎のレベル」しか持ってこれない。
しかし怪談では、解く責任がないため、
面白ければなんでもいい謎を持ってこれる。
傑作「リング」では、
VHSの絵は怖い、という新しい恐怖と謎をつくった。
そしてそれは解明されていない。
怪談だからである。
実はこれがストーリー的に解明されるのは、
原作三部作の小説版で、である。
幽霊の正体見たり枯れ尾花的な、ガッカリラストであった。
読んでない人へ、先に本稿の結論。
ガッカリなストーリー(解明)になるくらいだったら、
不明のまま終わらせようという、外しに逃げる人が増えた。
それはやっぱり外れると思うんだ。
でもラストを見るまでは、
ストーリーの形さえしていればどっちかは分からない。
だから、ラストに責任を持たない、
ストーリー形式の実質怪談が、
売れてしまう。
僕はガッカリラストだったガンツ最終回を許していないし、
ボーイズオンザランのガッカリラストを許していない。
(アイアムアヒーローも結局そうかよ)
怪談をやるなら、怪談という責任を取るべきで、
ストーリーをやるなら、ストーリーをやるべきだ。
うまく逆張りするか、外しに逃げるかは、 あなた次第である。
逆張りするのはストーリーテラー、
外しに逃げるのは詐欺師である。
(以下リング三部作ネタバレ)
貞子は怨念で全てのメディアを乗っとる能力があった。
こうして全てのメディアが貞子化していく。
そして実は、この世界はコンピューターの中の架空世界で、
貞子はその中のバグだったのだ。
そうして、この世界はバグだらけになり、
世界が停止しておしまい。
うーん、ガッカリ。
これを踏まえれば、映画「リング」のラストは傑作だ。
一番いいところで終わった怪談だからである。
2017年04月06日
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