2017年04月07日

それでも手書きを捨てないこと

カタナ式が手書きのスピードに追いつき、びっくりした。
しかし仮に手書きを越えても、僕は手書きを止めない。

なぜ手書きのほうがよくて、
キーボード打ちじゃだめなのか。

可塑性(レイアウトフリー)、
紙だから強い(充電や電源心配なし、開けばOK、雨にも強い)、
一覧性、並べて比較できること、
量的質的ニュアンスで色々測れるなど、
手書きが物理的に勝っているところは、
すぐに考えつくことができる。

僕はさらに、「人前に出る意識」というものが手書きにはある気がする。


口述筆記の欠点をこないだ聞いて、
なるほどと思ったことがある。

口述筆記は最も速いスピードのやり方に思えるのだが、
実は、
「人前に出るレベルの文章になってなくて、
その場の思いつきの、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする、
まとまりのない文章になりがち」
らしい。

たしかにこれは、居酒屋や喫茶店のおしゃべりの本質に似ている。

文章というものは、
我々の思いついてすぐどっかに行ってしまうような、
話題や意識を、
一定の水準に保ちながら、
順序だてて最初から最後まで、
論理を一貫して、すっきりとさせることである。

逆にいうと、
私たちの思いつきは、
その場かぎりで、結論などなく、
合理的にそこへ向かうこともなく、
その場のノリや興味やテンションのほうが大事で、
落ちや意味を必要としない。
(大阪人は必要とする)

それを、ある種の整理をし、
結論(落ち)へ向かうひとつの矢を作ることが、
文章を書くという行為だ。


だから口述筆記は、
文章を書くというよりも、
おしゃべりに近く、
それゆえ、無駄が多く話がよれがちらしい。

口述でしかなく、文章のレベルに達していないらしい。

そういえば昔のアイドルの本は、
口述筆記がほとんどだった。
字が書けないとか、机に向かう忍耐力がない、
なんてバカな女が多かったこともあるけれど、
そもそも文章としてまとまった話が出来ない、
ということのほうが大きかったと思う。

それをプロのライターが、
まとまった話としてちゃんとリライトする
(必要によっては落ちも足すし、
要らないものは削ったりする)
ことで、「本」としての体裁を整えていたのだ。

ところで、
バカな若いクリエイターが、
本人の言葉を拾いながらライブ感で纏めていきたい、
なんてバカなことを言う話をした。
アドリブではストーリーを紡げない話も、
大分前にした。
これは、口述筆記と同じことだ。

ライブ感やおしゃべりは、
その場では面白いが、
最終的に意味をなすものになっていない。

最終的に意味をなすのは、
最初から最後まで保たれた、一貫した理性である。



ということで、
手書きとキーボードだ。

僕は手書きのほうが、人前に出る理性のレベルを保っていると考える。
そこに物理があるからだ。
リアルワールドに影響を与えながら書いているからだ。

一方、キーボードはデジタルのバーチャルワールドに、
影響を与えながら書いている。
アンドゥ可能で、閉じていて、誰にも見えないところで。
それは、一人言や妄想に近いのではないかと僕は思う。
ツィッターがバカ発見器になったのは、
閉じたおしゃべり、仲間内のノリが、
世間に晒されてしまったからだ。

エアセックス選手権童貞の部のように、
妄想や思い込みが、
世間のフィルターを通すことなく出てくるのである。


じゃあ手書きは一人言じゃないのか。
多分違う。
紙は見られるからだ。

逆にモニタが壁に投影されていて、
誰もがそれを見られる状態ならば、
一人言にならないかも知れない。

そして手書きの一番いいところは、
汚いところだと僕は思う。

だから「清書をしようとする意識」がはたらく。
清書をするということと、
手書きはペアである。

清書のときになってはじめて、
「他人の目」を最終的に意識して、
自分のなかの妄想と人前の意識を調整するのではないだろうか。

キーボードにはその段階がない。
もちろん、下書きと清書をファイルを分ければ何か生まれるかも知れないが、
「汚く原始的なものを綺麗に纏めていく」
という手書きの優位性は揺るがないと考えられる。

つまり手書きの優位性は、最終的には、
「知性による纏め」なのだ。

キーボードは書き散らしておしまい。
書くことより、言うことに、口述筆記に近い。
だからいずれキーボードは無くなって、
音声入力が主流になる気がする。
口述筆記になってゆくわけだ。
口述筆記だろうがキーボードだろうが、
それは口述筆記の欠点、
「纏まった知性で整理されていない」
ということが残り続け、
ネットには失言やデマやバカの戯言が増えていくと予測される。

思えばインターネットの黎明期、
ホームページしかなかった時代は、
ホームページはある種の知性のもとに纏められた、
デジタルの本に近かった。
インターネットはだから、新しい図書館にたとえられた。
しかしブログやツィッターやインスタやらラインやら、
その他もろもろは、
知性による文章ではなく、
感覚的な発言で溢れている。

私たちは文章を書く猿から、
叫ぶ猿に退化したかのようである。

いずれ発達したAIが人間の知性を越えるとして、
それがインターネットから出てくる、
というのもSFみたいな結末だね。
(私たちは新しい世紀末に生きている。
前の世紀末は核戦争や温暖化が破滅のイメージだった。
この世紀末は、AIが人類を越えるイメージである。
具体的な絵がないところが、新しいのである)



ということで、
知性を保ち続けるために、
僕は手書きを続けるだろう。

キーボードのほうが優れてるなんて言うやつは、
どうせバカなのさ。

(あるいは、キーボードと組み合わせた知性的な纏めをうまくやるアプリがあれば、
手書きを凌駕するかも知れない。
人類の知性の進歩は、そこからか。
現在の集合知だけでは、そこまでたどり着けまい。
混合によって起こるのは進化ではなく均一化で、
進化は孤立から起こるからだ)
posted by おおおかとしひこ at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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