論理的整合性とか、難しい言葉で誤魔化さずに、
「すべて合点がいく説明がつくこと」
と置き換えてもよい。
あなたのストーリーは、
すべて説明がつくように出来ているか?
出来ていないのを、「穴がある」などという。
ストーリーにはあらゆる要素がある。
人の行動や動機、事件の解明、
一見そうだと思われていた、間違っていたことと真相。
「謎は全て解けた!」じゃないけれど、
ストーリーとは、
あらゆる要素がつまびらかになっていく過程で(も)ある。
これはたとえば、科学や宗教もおなじだ。
世界はどのように出来ているのか?
という大きな出発点に答えるために、
「地球は動いていて、それはニュートンの運動方程式で記述できる」
と説明がつくようにするのが科学で、
「神がつくり、秩序が生まれた」と、
説明がつくようにするのが宗教だ。
両者は、説明の仕方の違いにすぎない。
宗教と科学の違いは、検証可能性に尽きる。
ニュートンの運動方程式という説明のときに、
質量や重力や、微分方程式という概念がつくられた。
科学は、この概念に基づき、
世界を検証できる。
ロケットや飛行機が飛ぶのも、
橋の振動設計が出来るのも、
チャリンコや車や電車が動くのも、
ボイジャーが飛び続け宇宙ステーションが出来、
木製重力を生かして加速するのも、
ニュートンの説明どおりに世界が動いていて、
検証することで世界を操作できるわけだ。
科学は、世界を説明するモデルを作り上げ、
世界を検証することでモデルの修正をしていく。
つまり、世界モデルを私たちの頭の中で操作できるようにする。
宗教は検証できない。
「悪いことをするとバチが当たる」は検証出来ない。
「神の怒りに触れる」も検証出来ない。
「神がいて、我々を見ていて、
バチを与えたりラッキーを与えたりする」という世界モデルは、
私たちの直感に近く、経験則にもあっている気がするが、
定量的モデルをつくって頭の中で操作し、
その通りに世界を操作できない、
という意味で、不完全である。
勿論、科学で検証しきれることには今のところ限界があり、
宗教はその暗黒部分を担うという役割に変わってきた。
(人類の昔、科学はなかった)
さて、ストーリーだ。
ストーリーは、架空の世界のことについて語るものである。
我々の世界ととても似ているが、
フィクションということを皆了解しているため、
それは非なる世界である、
ということを皆了解して見ている。
今時、ストーリーの中のことを本当だと思うのは子供だけだ。
仮面ライダーはいない。
さて。
そのストーリーが、完全であることが必要である。
完全であるとは、
「全てのことにうまく説明がつく」ということである。
私たちは架空の世界を、
リアル世界を科学が説明するように、
世界のモデルを私たちの頭の中に作り上げ、
それを操作することで、
理解をするのだ。
「あれ何でこうなったんだっけ。
そうそう、○で○だったんだ」
「何のためにこれをするんだっけ。
そうそう、○のために○をしなければならないんだった」
「一体これからどうなるんだろう。
○で○ということは、
○になるかも知れないし、○かも知れない。
しかし普通に考えれば○ではないだろうか。
これまでの経緯からすればそれが自然だろう」
「結局この話は、○と○が○であった、
ということなのだなあ」
などのようにだ。
これは、リアル世界の因果関係を理解する
(頭の中で世界モデルをつくり、頭の中で操作してみる)
という、科学や宗教の理解の仕方と、
全く同じであることに注目されたい。
私たちがストーリーを理解した、ということは、
科学を理解した、とか、宗教を理解した、
ということと、同じことが頭の中で起こっているのだ。
ストーリーはどちらかと言えば科学に近い。
説明のつかないことがあるべきではない。
たとえば、リアル世界では、
「どうしてこのカップルが成立するのか分からない」
ということがあったりするが、
ストーリーの中では、説明がつくべきだ。
それは、劇中で説明シーンを入れなければならない、
ということではなく、
自然と分かるように世界のモデルが出来ているべきなのだ。
たとえば幼なじみであるとか、
同郷とか、価値観が近いとかなどの初期設定でやるか、
二人で苦労するエピソードで納得させる(吊り橋理論)とかだ。
どちらにせよ、
私たちは、完全なストーリーに関して言えば、
頭の中の世界モデルで、
全てが納得のいくような、説明が出来る。
ストーリーが「わかった」ということはそういうことだ。
(だから、素人はわかったことを伝えたくて、
世界モデルを解説し始めるのである。
Wikipediaのあらすじ紹介は、ときどきあらすじではなく、
この理解の披露の場になっている)
さて。
おかしな、出来てない、不完全なストーリーとは、
中の要素が、
一部または全部が、うまく説明がつかないもののことを言う。
なんでこうなるのか分からない、
どうしてこれをするのか分からない、
あの要素は○だと思っていたのだが違ったようだ、じゃああれは何だったの?、
○の伏線が解消していない、
謎がまだ残っているが続編への伏線?(そして続編でも解消されない)、
○は伏線だと思っていて不自然さも我慢していたのだが、違ったのかよただの破綻かよ、
なんでこれをそもそもしなきゃいけないんだっけ、
○するのがおかしい、○したほうがよくね?、
なんで○しないの?、
なぜ黙ったままなのか、
この人が何を考えているのか、結局よく分からない、
何のためにこの人(組織、小道具、要素)が出てきたんだっけ、
で結局、これ何だったの?、
などなどの、
「不可解」が起こるのだ。
もしこれが科学的理論であれば、
不完全な理論である、と却下されて死ぬ。
説明がつかない例外があると指摘されて。
(そのため、不完全な科学的理論では、
理論の適用範囲を同時に示し、
この範囲内で適用可能と注意書をつけることがある。
ここが詐欺師のはびこるエリアだ)
しかしストーリーの場合はそうではない。
不可解は、理解が足りないせいかも知れない、
と自己責任にしてしまうことが往々にしてあるわけだ。
自分は高尚な作品を理解するにはバカである、と。
本当に賢い人なら、
それは世界モデルの破綻であると指摘できるところを、
作品が悪いのではなく自分が悪いと思い込む傾向にある。
認知的不協和理論である程度説明できる。
「人は自分の感情を理屈で補いがちで、
感情を変えるのではなく理屈を変えることで対処しがちだ」、
という理論だ。
一度作品に惚れてしまったという感情をキープしたいがために、
理屈で説明がつかない部分を、
私のほうがバカで作品が悪いのではないと、
説明したがるのである。
これが、盲目的信者を生み出す原因だ。
それは、世界の破綻を、人はうまく説明できない、
ということかも知れない。
完全な世界の説明は、
完全だから説明できる。
しかし不完全さは、これがこうなるべきなのにこうなっていない、
と、完全な世界を架空につくり、その差異で説明しなければならない。
この「架空の完全世界」が各自バラバラだから、
論争(結論の一致を見ない)が起こることになるわけだ。
これは宗教の、世界モデルが不完全なことに近い。
信者とはよく形容したものだ。
さて。
あなたのストーリーは、
すべてが説明がつくように出来ているか?
すべての疑問は世界モデルを頭の中に作り上げられれば、
説明が出来るようになるだろうか?
その世界モデルは、
すっと頭の中に入ってこなくてはならない。
だらだらと説明されたり、
細かい注が一杯あるものでは、
把握しきれない。
一度になるべく把握出来るもので、
かつ説明がだらだら必要ないもので、
かつ架空世界のすべてのことが説明がつくような、
世界。
あなたはそれを創造しなければならない。
事件の発生、その経過、結末、決着。
人々の行動、感情、動機、目的。
不条理や不可解はひとつもなく、
全てがスッキリと説明がつき、
そしてスッキリと頭の中に収まるようなもの。
それらを作れたのが、名作と呼ばれるものである。
勿論、破綻したり穴があいてても、
魅力的なものがある。
それは怪談だ。
世界は説明しきれないのだ、
という不安とシンクロするためにある娯楽だ。
これは宗教に近い。だから死がよく出てくるのかもね。
意図しない不可解があってはならない。
それは、あなたの実力不足である。
もし、世界モデルがうまく伝わったかどうか不安ならば、
誰かに、この架空世界がどう出来ているか説明してみて、
と頼むことが出来る。
驚くほど伝わってなくて、絶望するほど誤解されていることがある。
誰にでも分かりやすい、かつ面白い、かつ意義のある、
完全な架空世界とストーリー。
これを作らなければならない。
勿論、これを作るにはある程度の長さがいる。
映画の二時間というのは、
それに適した長さのような気がする。
短編ではそこまで難しい。
だから、短編は怪談が多いんじゃないかな。
全ては説明がつくか。
無理やご都合や矛盾はないか。
理解するのが複雑ではないか。
スッと入るか。
練るとか揉むとかは、
それらをスッキリとした完全世界にしていく工程かも知れない。
2017年04月10日
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