2017年04月12日

デジタルは人を幸せにしない:画質が上がると、奇跡が減っていく

世の中にはクオリティーという言葉がある。
質の良さ、ということで普通は思われている。

ところが、映像技術の世界では、
画質とは、何故だかピクセル数のこととなっている。


実際の映像技術では、
受け側の、
ダイナミックレンジや、
ローやハイの粘りや、
シャープネスや、
深度の表現や、
ローのノイズや、
圧縮率や、
色温度への敏感性や、
ログカーブや、
フリッカーなどがあり、
レンズ側では、
分解性能や、収差や、UV特性や、
ハレーションの形や、絞り(f値、F値)や、
重さや頑丈性や、ズームや、
軟調か硬調か、独特の味があるかどうか、
などがある。

しかし、ほとんどの民間情報は、
画質といえばピクセル数のことになっている。

これは、おそらく見た目が分かりやすいからだろう。


人類がカメラを発明して以来、
それは真を写すという言葉通り、
機械の揺れを通さない、
真実の世界をそのまま写しとることが、
カメラの使命でもあった。
報道や記録に関してはそうだっただろう。

しかし我々は、真を写すのが仕事ではない。
偽を写して真に見せるのが仕事だ。

だから、画質が上がると困るのさ。
偽物ってばれちゃうじゃないか。

画質の向上は、修正が前提となってしまった。
誰だよスマホアプリに修正道具入れたやつ。

それはつまり、
真実は、嘘をつかない限り、大したことないとばれてしまったのである。


本当のリアルは、大して面白くない、
奇跡なんて100年に一回ぐらいの、
どってことない世界なのだ。

それを、表現という奇跡を持つことで、
人類は奇跡を味わってきたのだ。
それを文化というのではないだろうか。


そのカメラが、嘘をつく手間が、
撮影+修正と、どんどんと増えている。
修正とは要するにモザイクだ。
モザイクをかけなくていいレベルで我々は嘘をついてきたのだが、
精度が上がれば上がるほど、
鮮明な部分にモザイクを施す手間をかけなければならない。


手間がかかるとは、プロの世界では単価が上がるということ。
画質向上は、
現場をブラックにしただけなのである。

だからか、
今映像文化は、奇跡が生まれていない。


僕はSDのTVが大好きだったので、
HDになってからTVは壊滅したと考えている。
UFOや心霊写真は、画質が上がったら、
面白くもなんともなくなってしまった。

画質を上げることは、
世界をリアルにすることで、
世界から嘘の奇跡が減っていくことである。
ほんとのレベルの奇跡しか、
滅多にない奇跡しか、
世の中にないことになってしまう。
1000年に一度の美少女は、
もう1000年あとにしかいないんだぜ。
画質さえ良くなければ、1000年に一度の奇跡は、
毎年数回起こるというのに。

それは、人類を幸せにしているのかね。


僕は今、映画やTVが、
人をかつてほど幸せに出来ていないのは、
デジタルの画質向上のせいだと考えている。
勿論全部の責任ではない。
画質が上がらなくても面白い、
タモリ倶楽部は最後までSDだった。

画質が上がらなくても面白いことが、
本当にクオリティーが高いということなのに、
何故映像技術者はクオリティーといえば画質なのか。
画質を上げて首を自ら締めた家電屋さんは、
今息をしているのか。

私たちは、
画質によらない面白さを提供するべきだ。

それがYouTubeとかに無料化してしまい、
対価が発生しなくなり、
プロが食えなくなったことが、
映像文化の衰退を招いている気もする。


僕は面白い映画やドラマを普通に見たいだけなのになあ。
予算が低すぎる。デフレのスパイラルだ。
もっと人件費とスケジュールに、
ふつうにかけていきたいのに。
僕らは奇跡を起こしてきた。
またどこかで起こせるような場をつくらなければ。
それは金を保証出来ないと動かないのだろうか。
そこのところも分からない。

デジタルは人を幸せにしているのだろうか。
奇跡は、確実に減っている。
posted by おおおかとしひこ at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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