世の中にはクオリティーという言葉がある。
質の良さ、ということで普通は思われている。
ところが、映像技術の世界では、
画質とは、何故だかピクセル数のこととなっている。
実際の映像技術では、
受け側の、
ダイナミックレンジや、
ローやハイの粘りや、
シャープネスや、
深度の表現や、
ローのノイズや、
圧縮率や、
色温度への敏感性や、
ログカーブや、
フリッカーなどがあり、
レンズ側では、
分解性能や、収差や、UV特性や、
ハレーションの形や、絞り(f値、F値)や、
重さや頑丈性や、ズームや、
軟調か硬調か、独特の味があるかどうか、
などがある。
しかし、ほとんどの民間情報は、
画質といえばピクセル数のことになっている。
これは、おそらく見た目が分かりやすいからだろう。
人類がカメラを発明して以来、
それは真を写すという言葉通り、
機械の揺れを通さない、
真実の世界をそのまま写しとることが、
カメラの使命でもあった。
報道や記録に関してはそうだっただろう。
しかし我々は、真を写すのが仕事ではない。
偽を写して真に見せるのが仕事だ。
だから、画質が上がると困るのさ。
偽物ってばれちゃうじゃないか。
画質の向上は、修正が前提となってしまった。
誰だよスマホアプリに修正道具入れたやつ。
それはつまり、
真実は、嘘をつかない限り、大したことないとばれてしまったのである。
本当のリアルは、大して面白くない、
奇跡なんて100年に一回ぐらいの、
どってことない世界なのだ。
それを、表現という奇跡を持つことで、
人類は奇跡を味わってきたのだ。
それを文化というのではないだろうか。
そのカメラが、嘘をつく手間が、
撮影+修正と、どんどんと増えている。
修正とは要するにモザイクだ。
モザイクをかけなくていいレベルで我々は嘘をついてきたのだが、
精度が上がれば上がるほど、
鮮明な部分にモザイクを施す手間をかけなければならない。
手間がかかるとは、プロの世界では単価が上がるということ。
画質向上は、
現場をブラックにしただけなのである。
だからか、
今映像文化は、奇跡が生まれていない。
僕はSDのTVが大好きだったので、
HDになってからTVは壊滅したと考えている。
UFOや心霊写真は、画質が上がったら、
面白くもなんともなくなってしまった。
画質を上げることは、
世界をリアルにすることで、
世界から嘘の奇跡が減っていくことである。
ほんとのレベルの奇跡しか、
滅多にない奇跡しか、
世の中にないことになってしまう。
1000年に一度の美少女は、
もう1000年あとにしかいないんだぜ。
画質さえ良くなければ、1000年に一度の奇跡は、
毎年数回起こるというのに。
それは、人類を幸せにしているのかね。
僕は今、映画やTVが、
人をかつてほど幸せに出来ていないのは、
デジタルの画質向上のせいだと考えている。
勿論全部の責任ではない。
画質が上がらなくても面白い、
タモリ倶楽部は最後までSDだった。
画質が上がらなくても面白いことが、
本当にクオリティーが高いということなのに、
何故映像技術者はクオリティーといえば画質なのか。
画質を上げて首を自ら締めた家電屋さんは、
今息をしているのか。
私たちは、
画質によらない面白さを提供するべきだ。
それがYouTubeとかに無料化してしまい、
対価が発生しなくなり、
プロが食えなくなったことが、
映像文化の衰退を招いている気もする。
僕は面白い映画やドラマを普通に見たいだけなのになあ。
予算が低すぎる。デフレのスパイラルだ。
もっと人件費とスケジュールに、
ふつうにかけていきたいのに。
僕らは奇跡を起こしてきた。
またどこかで起こせるような場をつくらなければ。
それは金を保証出来ないと動かないのだろうか。
そこのところも分からない。
デジタルは人を幸せにしているのだろうか。
奇跡は、確実に減っている。
2017年04月12日
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