ポスターのことを考えよう。
男が一人、白バックの前に立っている。
これはストーリーのポスターではない。
男が二人なら?
これはストーリーのポスターになる可能性がある。
ストーリーとはコンフリクトのことであるから、
立っている男二人の間の、
揉め事や喧嘩や違和感や仲直りや、
共闘や絆などがイメージ出来るポスターなら、
それはストーリーのことを暗示している。
ビッグスターの共演には、ストーリーそのものよりも、
その二人の共演が面白そうなことが多いとして、
白バックにそのスター二人を立たせることが多い。
背景よりも小道具よりも、
その二代スターだけが商品、
くらいのものに限るけど。
そこまでの二人じゃない場合、
たとえば一人に銃を持たせてみよう。
小道具である。
そうすると、その持っている男は、
誰かを殺すか威嚇するために持っているわけだ。
犯罪もの、刑事物の典型的なストーリーが浮かぶだろう。
少年が持っていたら?
少年兵などの社会問題の話をイメージできるだろう。
訓練された銃の持ち方なら、軍人や刑事の話だろうし、
訓練されていない持ち方なら、
普通の男が偶然銃を手に入れてしまったことで、
何かが起こる話だろう。
それらは、服装でも表現できる。
医者の格好で銃を持つのと、
刑事の格好で銃を持つのでは、
ストーリーは全然違う内容だろう。
医者の格好で、訓練された銃の構え方をしていれば、
もと軍人現医者、または軍医の話かも知れない。
相手方の男は?
女装していれば、潜入捜査官のコメディかも知れないし、
性同一性障害の社会派かも知れない。
笑えるやつなのか、真面目なやつなのか、
表情や写真のトーンである程度判断できる。
さて、それは白バックで撮らなくてもよい。
電車の中、レストランのテーブルに上がって、
家の前、リビング、近代的なオフィス、廃墟、
などなど様々なシチュエーションで撮ることが出来る。
近代的なオフィスで銃を構えた特殊警察と、
ガラスの割れた侵入口から来た女装した男の対峙ならば、
シリアスな異常テロリスト退治ものか、
その設定の爆笑コメディ(警官が恋をするとか)の、
どちらかだろう。
それは写真のトーン(シリアスか、ギャグか)で決まるだろう。
銃を構えた男が、
特殊警察の格好ではなく医者の格好ならば、
もと軍人の現医者がたまたまオフィスに来ていて、
そこで女装したテロリストに襲われて、
かつての軍人魂を取り戻す話になるだろう。
(だいぶ複雑だが)
このように、
男二人、小道具、衣装、背景、ポーズ、位置関係などで、
ある種のストーリーを現すことが出来る。
これを、イコンというわけだ。
正しいイコンとは、
写真の出来映えもさることながら、
このような、話の内容をうまく現しているものであるべきだ。
極端にいえば、銃を構えているポスターなのに、
中身で銃が出てこないならば、それはイコンとして間違っている。
(逆に、銃が一回も出てこない弁護士ものなのに、
「弁護士とは銃を言葉に持ち変えたものだ」
というテーマだったとしたら、
ポスターで銃を構えるのは正しい内容表現だ)
男二人を、男女にしたり、女二人にしたり、
子供や老人に変えたり、
年代を一緒にしたり変えたり、
一方を人外(ロボット、魔物、お化け、妖精、宇宙人、
オモチャ、などなど)に変えることもありえる。
さらに、二人とは限らない。三人やそれ以上になることもある。
しかし、容易に考えられるように、
三人以上になると、
二者と二者間のコンフリクト、
というシンプルな構図が崩れて、
誰と誰の関係を把握しなければいけないかが、
ぼやけてしまう。
ある程度構図や目線などで示すことは可能だけど、
何を示しているのか、
ハッキリしにくくなる。
抽象的なバックで、
スターたちがコスプレして並んでこっちを見ているポスターは、
最低のポスターである。
それは何もストーリーを現していないからだ。
中身に何も面白い部分がなく、
スター共演しか見るべき所がないと、
自ら暴露しているようなものだ。
そういうポスターやジャケットの映画は大抵くそだ。
もっとも、デザイナーや宣伝部がくそで、
せっかくの内容を台無しにすることもあり得るだろうけれど。
どんなイコンならば、
そのストーリー内容をうまく表せるだろう。
たとえばロッキーのポスターはどうだったか。
ロッキーのストーリーを全て現すことは出来ない。
だとすると、
その最もいいシーンをイコンにしつつ、
ストーリーを暗示し、
かつネタバレを避けなければならない。
実際のところ、
見終えたあとに心に残るロッキーのイコンは、
生卵だったり、ラストシーンのエイドリアーンだ。
しかし生卵ではなんのことか見てない人には分からないし、
エイドリアーンをポスターにしてしまっては、
激しくネタバレというものだ。
ということで、
ロッキーのポスターは、
フィラデルフィア美術館の階段を登り終え、
朝日に両手を挙げる後ろ姿となっている。
ボクシング姿で客を呼ぼうとか、
主役をアップにしてないどころか後ろ姿とか、
今の興行の常識からすれば、考えられないポスターである。
しかし、
興行的に興奮するボクシングシーンや、
客引きになる主役のアップ(当時のスタローンは無名であるが)
を使わずに、
ストーリーのイコンになるものをポスターにしたことが、
ロッキーを永遠なる名作にしていると僕は考える。
何故なら、
ロッキーはボクシングのストーリーではなく、
ある一人の男が、
挫折から立ち直る話だからである。
その男が自信を取り戻す瞬間こそが、
このストーリーの中心的場面であり、
それは第二ターニングポイント、
トレーニングが終わってあとは試合するだけ、
というポスターの瞬間か、
ラストシーン以外にないわけだ。
(そういえばラストシーンのぼこぼこになったスタローンのポスターを、
どこかで見た記憶がある。
ネタバレしてもOKなほど、ロッキーを皆が見ていて、
それを大切にしたい人だけが持つポスターだろう)
私たちはこのポスターを見て、
ロッキーの挫折やサクセスストーリーをいつでも思い出すことが出来る。
写真は動かないけど、
そこに永遠にとどまる。
写真は、思い出すために存在するわけだ。
写真をただいい写真にするのは、
映画のポスターとしては間違っている。
ストーリーを写真で示すのがポスターの役割で、
かついい写真ならば完璧なわけだ。
(ところで、ロッキーのポスターにはコンフリクトとなる人物が示されていない。
しかしロッキーは自分を越える話しでもあるから、
アポロやポーリーやミッキーとのコンフリクトよりも、
自分とのコンフリクトの方が、主題だったりするわけである)
ようやく本題。
つまりは、イコンになるような場面を、
ストーリーの肝に持ってくるべきだ。
それは、ただいい絵を持ってくるだけではだめだ。
ストーリーを現している絵にすべきだ。
なぜなら、
あなたのストーリーは、その絵で記憶されるからだ。
それは見終えたあとなどという悠長なスパンではなく、
「さっきの場面を思い出す」という実用的なレベルで、
である。
さっき何が起こったんだっけ、
それはどういう意味だったんだっけ。
そのごく普通のことにすら、
絵の記憶は重要である。
大事なことは記憶に残りやすい絵にするべきで、
その意味を思い出すには、
その絵がただ美しい絵であるだけでは機能せず、
「それがこういうストーリーを現している」
という場面である必要があるのである。
だから、
「さっきこういうことがあり」
「それはこういうことを意味している」
と、観客は前のことを忘れないで、
時系列として記憶することが出来るのだ。
より厳密に言うと、最後に近い絵ほど記憶に残りやすいので、
最後の絵ほど、これまでの流れをうまく圧縮出来ている絵であることが望ましい。
もっと厳密に言うと、第一印象と最後の絵が記憶に保持されていることが一番多いので、
最初の状態と最後の絵が、
その時点でのビフォーアフターになっていると、
ストーリーの理解がすすみやすいだろう。
イコンは、おそらく絵の存在しない、
小説にも発生することが予測される。
記憶に残るのは、絵になる場面であることがとても多いからだろう。
これを訓練する為に、
「名作映画を4コマで表現する」
というエクササイズを紹介したことがある。
そのストーリーが絵に現されるものほど、
より強い記憶があることだろう。
その訓練を経れば、
自分の作品もそうあるべきだという意識が、
生まれてくるのではないだろうか。
ストーリーの象徴的な場面を一枚絵にしてみよう。
それは、ストーリーの機能を絵で表現する行為だ。
もちろんすごい絵をかく必要はない。
どうせ脚本は字で表現する。
絵になる要素でまとまっていることが大事なのだ。
2017年04月13日
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たとえば本編中に明確に切りとれる1枚画になるようなショットが決められないとして、ポスターをつくる際にあらためてイコンたりえるビジュアルを開発するっていうのは、大岡さん的には反則なのか出来がよければありなのか、見解を聞きたいです!
いま短編映画をつくっていて、本編中にはないビジュアルでポスターをつくっていて、悩んでます。
詐欺じゃなければ、分かりやすく、魅力的なのがいいと思います。
(詐欺をするやり方も、戦略上はあるかもですが)
ジョーズのやり方は素晴らしいと思います。
決して撮れない絵を作っていて、期待感もあり、
「一見平和に見えるその足元にこそ恐怖が潜んでいる」
という発見もあります。
コツは、まず日本語で書いてみることかな。
「巨大ザメが美女を襲う」のように書いてみて、
それを何通りかの絵に起こすことをやってみるといいかも。
日本語で書く内容は、
ログラインや、
面白げな最初のシチュエーションや、
作品のハイライトの場面などを、
試してみると良いかも知れません。
本文中では触れませんでしたが、
角川映画はポスタービジュアルを決めずに、
ただスチルカメラマンを貼りつかせて、
現場で撮った写真でコラージュする、
という最も安易な方法を採択しています。
それでイコンが出来るはずがない。
結局、ポスタービジュアルを考えることは、
「この映画の本質は何か?」と問うことでしか得られません。
健闘をいのります。
手法や段取りに惑わされかけましたが、常につきまとう「この映画の本質はなんなのか」と真摯に向き合うことが正解、もしくは滑っても悔いなく死ねるなと理解しました。
ありがとうございました!