よくシナリオは建物にたとえられる。
設計や施工の感じ、
パーツに分けて組み立てていく感じが、
似ているからだと思う。
リライトも似ている。
下手なリライトは、
増改築を重ねてへんてこになってしまった建物に似ている。
増改築を続けてへんてこになっている建築物の例。
香港九竜城。(今はもうない)
日本の澤田マンション。(高知)
他にもググれば出てくるだろう。
僕はこの異様さが大好きなのだが、
シナリオでこのようになってはいけない。
何故なら、余計なパーツの多い、
迷路になってしまうからである。
理想のシナリオは、
建築にたとえるなら小学校かな。
誰にでも構造が分かりやすく、
何と何がどう機能しあっているか分かりやすく、
全体像をすぐに思い浮かべられて、
どこから眺める絵も想像できる
(頭のなかで3Dで回しても大丈夫)。
パーツと全体の関係がスッキリしている。
などが似ている。
さてリライトだ。
小学校を増改築して、失敗したイメージを想像しよう。
ヘンテコな渡り廊下を増築したり、
第二校舎を作って3.5年生の教室を作る、
職員室が二つある、
みたいなイメージだ。
ややこしいわ、という感じだ。
実際にあったら迷路みたいでわくわくするだろうけれど、
そこで6年間暮らすことを考えれば、
使いにくい小学校であることに変わりない。
つまり、建物を使うという感覚と、
シナリオを読むという感覚が対応している。
九竜城は居住者でなければ目的地にたどり着くことも出来ず、
初心者殺しであったらしい。
ダメなシナリオは、
すなわち初心者殺しになっているということ。
リライトをするとき、
目の前の都合で目の前の原稿を直してしまう。
それを全体から見たらどう見えるかを、
計算して直すことはなかなかに困難だ。
だから、増改築した建物に、
その部分だけなってゆくわけだ。
理想のリライトは、
「まるで最初からその設計であったかのように直すこと」
だ。
3.5年生の教室を作るならば、
最初から7年生教育であるように、
教育体系があるはずなのに、
カリキュラムもなくただ建物と教室だけが増改築されたような感じに、
なりがちなんだよね。
もしそのリライトをするのだとしたら、
最初からそのように設計されていたように書く。
ということは、
安易に部分を書き直す前に、
全体像が歪んでしまわないかどうかを、
頭のなかで練り直さなければならない。
3.5年生の教科書、職員の配分、
給食はどうする、中学高校はどうなってる、
なんてことからきちんと設計しないと、
3.5年生の教室をそこに作ることは出来ないだろう。
ヘンテコなたとえになって、
うまく説明が出来てるか分からないが、
リライトがうまくいかない経験をしてる人なら、
頷ける話かも知れない。
下手に部分を直すぐらいなら、
前の原稿を見ずに最初から最後まで書き直したほうが早い、
という僕の経験則は、
下手な増改築でおかしくなるのを防ぎ、
まるで最初からそう設計されたかのように書くための、
現実的な方法論である。
しんどいけど。
(最初から白紙に書いていくと、
増改築した部分の矛盾を、吸収しながらフォロー出来る)
下手な手術をしてキメラやフランケンになるくらいなら、
受精卵からやり直すみたいな無茶な方法なわけだ。
勿論毎回やると死ぬので、
独り言でぶつぶつ最初から最後まで説明する、
という方法論が使いやすい。
それで最後まで通したときに、
おかしくないようにまず完成させ、
文字のシナリオで直すべき部分を洗い出す、
という感じである。
白紙に書くのも、空中に言い続けるのも、
架空のものを頭のなかで操作する感覚を、
作り出しているわけである。
何故それがいいのか、うまく説明が出来ない。
文字に現れていない、流れ
(観客の頭の中の想像)みたいなのを無視して、
増改築が行われるからだと思う。
建物にたとえるなら、周囲の機能との調和を無視して、
パーツだけ足したり引いたりして全体の機能がおかしくなる感じか。
増改築した建物には、異様な魅力があるけれど、
それは普段私たちはスッキリした建物に慣れているからだ。
たいていのダメなシナリオが、
渋谷ダンジョンや新宿ダンジョンみたいな増改築物件であるから、
スッキリした小学校みたいなシナリオのほうが良く見える。
それは、
理解が出来たゆえの、遊べる余地が沢山あることと、
似ているかも知れない。
2017年04月14日
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