2017年04月14日

増改築は、結局あとづけになる

あとづけの設定は、
あまりよろしくないものの典型である。

「こんなこともあろうかと、
実は○○を持ってきていたのだ」
というのは有名な真田さん(宇宙戦艦ヤマト)の、
あとづけのパターンだが、
「だったら最初っからそれ使えや!」
と突っ込まれる典型である。

それは、増改築に似ている。


あとあとそうなるならば、
最初からストーリーに設計として盛り込むべき。

これは、伏線とか前ふりと呼ばれるものの考え方である。
逆に言うと、
人は急に言われても、
「そのつもりではないから、戸惑う」のである。

お泊まりのつもりじゃない女子を、
「今日泊まってけよ」って誘ったってダメなのだ。
先に言っといてくれれば、
ベストの準備をしてくるのに、
ということなのだ。

ストーリーとはつまり、
準備万端で挑むということであり、
準備万端なのだがそれは黙っておく、
という慎みでもあるのだ。


増改築した建物の何がよくないかというと、
「いちいち説明をしなければならない」
ということに尽きる。

たとえば増築で、
構内の廊下に段差が出来てしまったとしよう。
渋谷ダンジョンにはそんなところだらけだ。

そうすると、その廊下の段差のたびに、
「ここは増築のせいで段差がございます」
と説明をしなければならないのである。
「なんで廊下はまっすぐじゃないの?
最初からまっすぐに作れないの?」
という疑問が出てしまうから、
説明せざるを得ないのである。

渋谷ダンジョンの説明はさらに酷くて、
ヤバそうな場所には警備員を配置して、
「段差にご注意下さい」と警告させる有り様だ。
警備員にいちいち説明をされるのもむかつくが、
悪いのは警備員ではなく、
最初から水平な地下道を設計できない、
あとづけの設計者だ。

(改装渋谷駅の設計者は僕の嫌いな安藤忠雄らしいが、
彼は構内地下道まで設計していないと思う。
どうせ中央部だけ作って周りはそれに合わせて、
なんて言ったんだろうね。
まさか宮益坂交差点の地下のアホみたいな段差も、
設計したのだろうか?
だとすれば二重にアホである。
彼は東横線から渋谷東映に行くことはないのだろう)


最初からそれを折り込み済みで設計していれば、
説明などしなくて済むように設計するはずである。

「こんなこともあろうかと、○○を持ってきていたのだ」
なんてわざとらしくそこで初めて出さずに、
出撃のシーンのときに、○○を写しておくだけでいい。

あるいは、
「△△が起こりうるから、○○の準備はいるだろうか」
ということに一度揉め事が起こり、
リーダーの古代は却下したが、真田さんは自分判断で積んできていた、
なんて小ドラマさえ作れるはずだ。


増築することで、
あとづけの説明をしなければならない。
しかしあとづけは大抵バレバレで、
最初からそうしとけや、と突っ込まれることになる。

何故かと言うと、増築はみんな分かるのだ。
最初からそうしてある、スッキリとした建築物を知っているから、
そのスマートでない感じが、
間抜けに感じたりイライラするのである。



ちなみに、
大阪市営地下鉄をつくるときに初めて導入された、
群衆制御の集団心理学を知っているだろうか。
「人は最初に見えた階段を利用する」というものだ。
何駅か忘れたのだが、
そのホームには階段がふたつある設計だ。
地下鉄から降りた人は「最初に見えた階段」を上って地上改札にいき、
地上改札からホームに向かう人は、「最初に見えた階段」を下りる。
こうして、どちらの階段も、自然に一方通行になるという仕組みである。

説明も何も必要ない。
引いた目で見ればホームに近い階段と、
改札に近い階段のふたつがあるだけで、
何も説明してないのに、群衆は勝手に一方通行を形成し、
人の流れが効率的になるという科学である。

最初からこのように設計されているのが、
エレガントな設計というものだ。

もし階段がひとつしかなく、
人が階段でぶつかることで問題が発生するということがあとで分かれば、
増築をせざるを得ない。
「左側通行にご協力下さい」という説明書きを、
ベタベタ貼ることで解消するしかないだろう。

階段を増設することで対応するとしても、
駅の稼働中の工事になるため、
改札を移動したりする、増設の増設が必要になる。
それが無理で、変な場所にバイパス階段を作ることで、
対症療法にすることになり、
結局「この変な階段は通行の緩和になる階段なのだ」
というあとづけの説明なしには理解できなくなる。

こうして、
「最初から群衆制御用に階段をふたつ作っておく」
というエレガントな解法には、決してたどり着けなくなってゆく。


僕はこの話を、直接設計した社会心理学者から聞いた。
京大の教授だったからだ。
もっとも、設計当初より人の往来が増えてしまい、
階段二つでも対処しきれなくなってしまったらしく、
「人が増えていくことまで設計の当初に入れておくべきで、
それが工学というものである」
という大切な訓示を教わった記憶がある。

逆に、今のリライト事情は、あとづけで条件が変わって、
対症療法で対処していかなければならない問題だらけである。
あとだしで条件を変えてくる馬鹿どもに、
最初の設計に大阪に人が増えていくことを予測できなかったことで、
後悔するその教授の、
爪の垢でも煎じて飲ませるべきであると思う。



さて、駅や建物の設計と、シナリオはとても似ている。
「最初から階段二つ作って制御するエレガントな解」
みたいなことを、
リライト段階でも、いつでも出来なければならないわけである。
posted by おおおかとしひこ at 13:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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