最近とみに言われることだが、
男の会話は結論を求めるもので、
女の会話は同意を求めるものである。
映画はどうあるべきか?
結論を求められているのか?
同意を求められているのか?
テーマに落とす構造から逆算するべきだ、
という伝統的な構造論は、
すなわち男の会話と同じである。
前提があり、展開があり、結論があり、
最初に結論のサマリーがあるべき、
というのは、
伝統的な論文の書き方であり、
すなわちそれはすべての文章の理想型だ。
だから、映画の脚本も、小説も、
大きくはこのスタイルで書かれるべきだ、
というのが伝統的な理論である。
結論であるテーマのない話はダメだ、
前提と結論がねじれているのはダメだ、
前提から結論へ至る筋道が飛躍していたり、
余計なものが混ざっていたり、
矛盾があったり、
逆行していたり、
始めたものが途中で消えていたりしてはダメだ、
複数の論が走ったとしても、全てがラストにひとつの点に集約するべきだ、
そのために複数の論は存在するのである、
などの伝統的構造論は、
全てこれを前提としている。
しかも、脚本や小説や演劇という、
ストーリーでこれをやるには、
演説や論文と違い、
直接の主張や論を展開するのではなく、
事件と、主人公による解決という道具だてで、
間接的に主張をするという、
間接話法として存在するわけだ。
どんなに面白かろうが、落ちが弱いのはダメだ、
その前提から始めるのならこういう結論が期待できるのに、
そうなってないからダメだ、
ただの意味のない空騒ぎである、
などの批判は、
論として成立していない、という構造的批判である。
逆に、ストーリーには、
意味や結論がなければならない。
ただ面白いことをやるのはただのサーカスにすぎない。
ストーリーが高尚なのは、
意味や結論を間接話法で展開するからである。
伝統的にはこう考えられてきた。
これは、男の会話である。
結論を求める会話と同じである。
一方、女の会話は、結論を求めない。
求めるのは同意である。
そうそう。わかるー。それなー。
○○は悪くない。
私が文句いったげるよ(その場の気持ちで本当に実行するかはどうでもいい)。
みんななかよし。一緒。
トイレにつれしょん。
私とどれだけシンクロするのか、
あなたは敵か味方か、
が重要であり、
それが何の意味や結論に導かれるかは問題ではない。
なんなら、意味や結論をいつわり、
あなたと同意するという嘘をつき、
女を騙すことが出来る。
(やりちんはそれを利用し、
永遠に好きという嘘をついてセックスをする。
普通の男は、意味や結論を重視するので、
責任を持てない女にそんなことは言わない。
もっとも、最近は女の転がし方が世に出回っているから、
女はこう操縦すれば喜ぶ、ということを知っていて、
わざと使う男もいる。
僕は男の子が「おかあさん大好き」と言って機嫌を取っているのを見ると、
心が暗くなる。それは機嫌を取るための嘘だというのに)
逆に、男は、同意や反意などは関係がなく、
意味や結論が重要であり、
意味や結論が正しいのなら、敵も味方である。
ヴォルテールの名言、
「私はあなたの意見には反対だ、
だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
というのは即ちそういうことである。
僕は詰まらない脚本をボコボコにするが、
それは敵だと思っていたり、
恨みがあったり、
嫌いなのではなく、
間違っていることを指摘しているだけだ。
敵とか味方とか、好悪ではなく、
正しいか正しくないかの話をしているだけだ。
(人間は好きなものをけなされたら、
不快とか敵意を抱くように出来ている。
好きなものが間違っていることを認めると、
認知的不協和が起こるからである。
このように、理性と感情は分離が難しく、
連動して動いていて、
かつ、それを自覚するのは、
無知ならば困難である)
さて。
女の会話として成立する映画って?
私の今の気分にぴったりなもの。
私の落ち込みにあうやつ。
私をハッピーアゲアゲ気分にさせてくれるもの。
きれいとかイケメンとか、イケメンのイチャイチャとか。
怖いのはいや。私は怖いのとか痛いのは嫌い。
共感できるもの。おじさんとか興味ないし、共感できない。
ストーリーも大事だけど、
雰囲気とか気分の方が大事。
結論とかどうでもいいの。私とのシンクロ率の長さだけ。
結論は覚えてない。気持ちよかったかだけが大事。
女を馬鹿にしているような特徴で申し訳ない。
まるで何も考えていない馬鹿ではないか、
と男なら思うのだけど、
女は女なりに考えている。
正確に言うと、女の「考える」は、敵か味方かを、
男の何万倍もの精度で観察しているのである。
だから女の言う「考え」と、男の言う「考え」は、
常に180度異なる。
男は常に女を考えていない馬鹿だと感じ、
女は常に男を考えていない馬鹿だと感じる。
それは、同じ「考える」という内容について、
全く別のことを考えているからである。
私達男の言語と、女の言語は、
同じ言葉でも違う側面のことを現している、
という可能性があるわけだ。
だから、
女にとって賢いとは、味方を増やすことであり、
男にとって賢いとは、優れた結論にたどり着くことである。
女にとって馬鹿とは、敵ばかり作ることで、
男にとって馬鹿とは、間違った推論である。
男は、敵を作ろうが正しい結論をしようとするので、
女からは馬鹿扱いされる。
女は、味方を作るために結論を出さなかったり持論を曲げるので、
男からは馬鹿扱いされる。
昨今、女向けの映画のマーケティングが幅を効かせている。
だから、
共感とか雰囲気や、
○○の気分にピッタリ!なんてことを言い出している。
前提から結論へ、という伝統的な男のストーリー論などどうでもよく、
むしろ結論なんてどうでもいい、となってきた。
だから映画を、男が見なくなったと、僕は考えている。
(現代は昭和に比べれば、結論を言い出しにくい時代だ。
その結論が妥当かどうか、検索されてしまうからだ。
検索のない時代ならば、
鋭い結論を断言できる人は、新興宗教のカリスマのような存在に、
すぐになれたのだ。
たとえば例は古いが、ホリエモンだ)
男は、結論が欲しい。
間のことは、矛盾がなければどうでもいい。
女は、共感が欲しい。
結論とかどうでもよくて、自分にぴったりが長ければ落ちはいらない。
私に同意して、だけが大事だ。
つまり、
これらを両方満たす映画を、
あなたは作らなければならない。
レズビアンのセックスを見たことがあるだろうか。
延々と朝まで続くらしい。
朝まで何をやってるのだろう、飽きないのだろうか、
と疑問に思うこと多々だ。
こないだ見た向井藍vs跡見しゅりという傑作は、
三時間ぐらいあって、
僕はちょいちょい早送りしていた。
自分の性欲とのリズムが合わなかったからだ。
男はピークを探すのだな、と自覚しながら見ていた。
それは結局、女の性欲の満足は、同意(シンクロ)の長さで決まり、
結論とか意味(射精までの過程、前戯から体位変更の組み立てや流れ)
を重視していない、
ということを見せつけられた感じであった。
男が女を理解しない。女も男を理解しない。
両者の差は、永遠に埋まらないかも知れない。
無知ならば。
知れば、理解することは出来るかも知れない。
僕が性欲の話を出すのは、
根本的だからであり、
性が大好きとか嫌いとかには関係がない。
もちろん、嫌いじゃないですが。
わかるー。それなー。
なんて、僕にとってはどうでもいい。
何が痺れる結論なのか。
それが全てだ。
あとはテクニックで、
わかるー。それなー。を散りばめていけばいいと考えている。
2017年04月16日
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作者の思考方法がストーリーの在り方に影響してくるのは興味深いです。
よく考えてみれば当たり前で。
文章や思考(や好み)が影響を受けないわけがない。
僕は星占いの12星座性格分析はかなり当たると思っていて、
過去記事にも書きましたのでごらんください。
信じる信じないはおいといても、
キャラクターの描きわけなんかは、とても有用な理論です。
まあ、実際、女のかく少年漫画はすぐばれるので、
男女差による物語のあり方は、
文化差では埋められないなにかがあると僕は思っています。
もちろんこれは統計的巨視的レベルなので、
個人差はたくさんあると思いますが。