2017年04月16日

「夜は短し」脚本的解説

せっかく脚本論を書いているので、
その脚本的な解説を書いて行こうと思う。

原作、アニメ版、大岡版を比較して論じる。
当然ネタバレなので、全てを見ていることが前提だ。



この原作のまず第一の特徴は、
マジックリアリズムと呼ばれる摩訶不思議な文体である。
ヘンテコなガジェットが山盛りで、
読者は酔ったように異世界へ放り込まれる。
それが幻想的な「京都」というイメージに引っ張られ、
勝手な妄想が巻き起こるという仕組みである。

しかし実際の所、
このような会話は、京大生の間では当たり前なのだ。
現実をわざと漫画的なもの、異界のものにねじまげて楽しむ
(異化)のは、知的遊戯の基本であるといってもいい。
我々の世代では、流行は上野千鶴子であったから、
すべてフェニミズムの陰謀であるような会話が多かった。

それはたとえば、
何でもかんでもイルミナティやフリーメイソンの陰謀に
結びつける、知的な遊びと似たようなものだ。
その陰謀的組織が存在しようとしまいと、
その組織のせいにして会話を楽しむのが、
紳士のたしなみのようなものである。

だから韋駄天こたつは、
本当は二畳の畳と、電源の入っていない、
ただのこたつである。
こたつ布団を、人の熱であたためるだけの、
野外こたつでしかないのだ。
それを、「いつの間にか現れ、消える、
謎の韋駄天こたつがある」と、嘘をつくことで、
ちょっと楽しくなるのである。
(実際、学園祭には、吉田寮から持ってきたこたつで麻雀をする輩が結構いた。
でもそれだけの為の、ただの遊びでしかないのだ)
ちなみに僕の下宿には、
いつも置いてある場所が不定なゴミ箱があって、
「ロプノール」(さまよえる湖)と呼ばれていた。
そういう感じだ。

すなわちこれは、見立てのオモシロさだ。
本当には存在しないものを、
こうあると面白い、とフィクションをつくって楽しむのである。

同じ議論は、
サンタクロースを例にしたと思う。
サンタクロースは、科学的には存在しない
(確率が相当に高い)。
しかし、いると思って行動するほうが、
人生が楽しくなる。
だから、サンタクロースは「いる」。
サンタクロースは、物語的存在として実在する。


マジックリアリズムを解剖して見れば、
たったそれだけのことである。
しかし小説は、
あると書けばあることに出来る。
だから森見氏の妄想的文章は切れまくる。
小説が映画にまさるのは、まさにその部分だ。

そのガワをはがして、
「本当には何が起こっているのか」を分析しなければ、
客観的三人称で描くべき、映画脚本に変換することは出来ない。

つまり、まず最初にすることは、
華麗なるガジェットをひっぺがし、
プロットの形に、
この物語を還元することである。
「ぶっちゃけ、何が起こっているか」だけに注目すればいい。


そうすると、身も蓋もない、
この物語の骨格が見えてくる。

すなわち、メアリースーである。



メアリースーは、
このブログでは何度も書いてきている。
要するに、
「自分は苦労したくないが、
都合よく幸せになりたい、
という願望を主人公に負わせてしまう」ことだ。
これをしてしまうと、
何も動かない主人公が、
タナボタで幸せを得ておしまいになってしまう。
(典型的なものは、「落下する夕方」
というクソ邦画で見ることができる)

これは詰まらない物語の典型である。
なぜか。
観客は、「自分は苦労したくないが、
他人が苦労してないのは許せない」からだ。
ある種の嫉妬であり、ダブルスタンダードである。
他人にはなるべく危険にあってほしいし、
なるべく苦労してほしい。
映画とは、それを見せる見世物であり、
そこからいかに脱出するかを見せる、
競い合いだ。


これが小説ではあまり目立たない。
理由はふたつある。

一つ目は、一人称で書かれていることだ。
一人称だから、「言い訳が効く」のである。
客観的に何もしてなくても、
心の中では嵐のような自問自答があり、
それがあったのだと言い訳可能なのだ。
これは、心の中が描ける小説だけが持つ武器である。
むしろこの原作は、
そうやって言い訳ばかりして何も出来ない、
青春の弱さを主題としている。
だから「私」の言い訳っぷりは、
一種のエンターテイメントに昇格する。
その極みは冬編の引きこもりぶりだ。
風邪を引いたことを言い訳に、
それをエンターテイメントクラスに昇華するだけの、
面白い文章が書けるのが、
森見氏の筆力だ。
(その意味で、森見氏の小説は、
近代的自我を受け入れることが出来ない男の言い訳を、
ひたすら書き続ける私小説という系譜の後継者だと言える)

しかし、
これが客観的三人称的映画になると、
その技は使えない。
モノローグばかり語り、
目の前で起こっていることに何もしない、
退屈な主人公になってしまうだろう。
(ちなみに、モノローグばかりやたらある詰まらない映画に、
「私の優しくない先輩」というクソ邦画があるので参考にされたい。
全盛期の川島海荷主演にも拘わらず、超詰まらない。
それはすなわち、私小説をそのまま映画にすると、
こんなに面白くないのだ、
という見事な失敗例である)


一人称だから、この言い訳ショーが成立する。
これがまずこの小説の第一の特徴である。


第二は、
乙女の一人称との同時進行ですすむ、
小説的構造にある。
「私」のメアリースー的な話を、
乙女のかわいらしさで、
いわば薄めているのである。

さて、
ではこの物語は、
どちらが主人公であろうか。

僕は、
春編が乙女、
夏・秋・冬編が「私」ではないかと考えている。

もともとこの小説は、
春編(木屋町の飲み屋街から、李白との飲み比べ)
の短編として書かれて、
それが長編化された経緯がある。
だから、
タイトル「夜は短し歩けよ乙女」は、
この春編の主人公の乙女に向けられた言葉
(夜のちまたに漕ぎ出し、冒険せよという李白の言葉)
にすぎず、「私」は関係ないのだ。

これを長編化するにあたって、
原作では「私」の恋の成就、という縦軸を、
急きょもって来たわけだ。
だから、原作自体ねじれた構造になっている。

この話全体を通す、
語り手がばらばらなのである。

それは、この物語全体を俯瞰して見る視点が、
欠如しているということを意味する。
これは「私」の主観的話でもないし、
乙女の主観的な話でもない。
しいて言えば二人の視点から同時に見た、
デュアルストーリーである。
だからこの小説は、
互いに一人称視点で書かれている。

三人称で書いてしまうと、
「で、ぶっちゃけどやねん」
という、丸裸が見えてしまうからだ。
主観的言い訳を、デュアルでやることでごまかす。
さらにそれをマジックリアリズムのガジェットが、
シュガーコーティングする。
この二重構造が、原作の構造だ。


では三人称的に見れば、
これはどういう話なのか。

女が興味の方向にふらふら動いているだけで、
なぜだか話がトントン拍子に進む。
男が言い訳ばかりして何もせず、
なぜだか都合よく、彼女と結ばれる。
(冬編のクライマックス、
竜巻の中での再会は、夢落ちといわれてもやむなしだ。
「私」はただ寝込んでいただけなのに、
勝手に好きな子が下宿に来て、
勝手に風邪薬を持ってきてくれて、
なぜかデートの誘いに乗ってくれた、
というだけの話である)

ぶっちゃければ、それだけの話。
しかしその内面の語りが、
一級のエンターテイメントになっているから、
文章として、読んでて快感なのである。
それは、三人称的俯瞰視点から見れば、
メアリースー的ご都合主義である。
(そして原作者もうすうす分っていて、
秋編では、最初からご都合主義と言い訳している)


ではこの原作を、
メアリースーの闇に陥ることなく、
「ぶっちゃけて客観的に見ても面白くする」
ためには、どうすればいいだろうか。
それを考えることが、
映画脚本に変換するということである。

いくつか解はあると思う。
僕は、王道の、
「勇気や自信のない男が、彼女のために、
空回りしまくっているうちに、
彼女の心をとらえはじめ、
いつしかその頑張りがかみ合い出す」
を選んだわけだ。

映画は、行動の文学である。
行動しない主人公は、
主人公の資格などない。
ヒントは原作に、勿論ある。
「私」がもっとも行動した、
強い動機のところはどこか。

古本市で、
「ラタタタム」を手に入れようと奮闘するところと、
学園祭で、
「偏屈王」最終幕で、
彼女とラブシーンを演じるために、
演劇をジャックしようとするところだ。

実のところ、
彼の積極的行動はこのふたつしかない。
あとは消極的攻めの行動、
「ナカメ作戦」ぐらいのものだ。

じゃあ、乙女の積極的行動は?
実は、ひとつもないのだ。
彼女は、興味に従って歩き、
親切への恩返しをしていただけである。

強い動機に支えられ、
リスクを冒し、
動きのある、映画的行動を取るのは「私」だ。

だから、僕は「私」を主人公にした、
ボーイミーツガールの王道的ストーリーに仕立てるべきだと考えた。

ただし、京大生独特の、照れや勇気のなさや、
モテナイ男特有の理屈に逃げる感じは、
原作の良い所として、なるべく再現するべきだ。

つまりこれは、
こじれた主人公による、
自分の殻を破るまでの、
ストーカー的王道ラブストーリーになるべきである。



ここまで考えれば、
メアリースーのいる余地はない。
最初は、
メアリースー的な、
都合よくうまいこといかないかと願う主人公が、
いつしか行動的になり、
その結果がかみ合っていく、
という、
上り坂のストーリーにしていけばいい訳だからである。



ということで、
僕は彼の強烈なる動機、
すなわち「恋する瞬間」を書くべきだと考えた。

原作にはそれはない。
最初から好きだとなっている。
なぜ好きかも書いていない。
小説だから、想像して楽しむのがオツなのかもだが、
映画は、動機に感情移入して見るものである。
彼の動機に、強く感情移入できなければだめだ。
(乙女のビジュア一発で世界中が恋すれば話はべつだが、
そこまでの女優がすぐに確保できない、
と踏んだ)


ということで、
何にでも理屈をつけ、
責任ある行動から本に逃げ、
運命や感情など非論理的だ、
とリア充に恨みを持ちながらかつ羨ましいと考える男が、
桜の花びらの下、運命的な出会いをする、
というトップシーンを足したわけだ。

トップシーンは、
ラストと対応して、主人公の変化前を示し、
テーマの逆であるべきだ。
つまりこの映画は、
「運命はある」ということがテーマである。

これが大岡版の、主軸になる。
全てはこれを軸にする。

原作は4部構成であるが、
僕は冬編をカットすることにした。
理由はすでに論じた。
最も行動に乏しい、
メアリースー的エピソードだからだ。
布団の中で閉じこもっている、
ご都合主義的展開だからだ。

だから、
アニメ版では、
ジョニー(ちんこ、すなわち性欲の象徴)
との対決を、クライマックスに設定している。
実際、このクライマックス化は、
間違っていると僕は思う。

敵は自分自身の性欲だろうか?
彼女を手に入れたいと思うことに、
性欲があるのは当然ではないか?
だから、ジョニーとの闘いに、
劇的勝利はない。
そこに乙女が到着し、
これまたメアリースー的に、
やっつけてくれる、
という願望クライマックスに終始してしまっている。

ああ、
湯浅は、自分の妄想を垂れ流して遊びたいだけなのだな、
と僕は理解し、
そのようなご都合主義に陥っているシナリオを批判しない、
このアニメスタッフは全員馬鹿か無知のどちらかである、
と僕は思った。


では、クライマックスは何であるべきか?
敵は何か?

僕は、性欲ではないと考える。
童貞の敵は何か。
自意識である。

自分がたいしたことないと思われることへの恐怖が、
童貞にとって、彼女を得ることより大きいのだ。
これを越えられた者だけが、
女とつきあえると、
誰も教えてくれないのである。

だから、
この物語では、
自分の自意識、
つまり言い訳ばかりして、
何もしないこと、
象徴的には「鎧」を、脱がなくてはならないのだ。

勿論失敗することが、
現実には多い。
しかしこれは映画だ。
それをハッピーエンドにするような、
素敵な物語にしなければならない。

ヒントは原作にある。
最も勇気ある行動はどこか。
古本市で火鍋を喰う所か。
学園祭で花火を上げ、屋上から落下し、ロープにつかまる所か。
後者である。

ということで、
冬編をカットし、
この場面をクライマックスにすることを、
僕は考えたわけだ。

しかしその後、
偏屈王最終幕でハッピーエンドになる為には、
最大のイベント、
告白を成功させなければならない。

こうして、
「乗っ取った演劇内で、
アドリブで告白し、
彼女の心と通じ合う」
というクライマックスが、
ほとんど論理的に導かれることになる。


これで山が決まった。
あとは逆算で、全てを組み立てればいい。

何故彼女はこの告白を受け入れるのか。
この時までに、
彼女は、会えない先輩のことを、
普通の人以上に会いたい、
と思っていなければならない。
ということは、探したけど会えなかった、
ということをする必要がある。
すれ違いの、古典的手法を使えばいいわけだ。

ラタタタムを取り返したのは先輩だと樋口から教えられ、
お礼を言おうと思うのだが、
連絡先が分らず、
偶然、奇遇に会えた場所で、
しばらく待ってみる、というのが僕のアイデアである。
ナカメ作戦を単なるネタでなく、
ストーリーに利用するわけだ。

そこは自動的にボトムポイントになるわけだから、
一度先輩は、彼女を諦める必要がある。
だからその前に、メチャクチャな暴走をするが、
報われない、ということが必要だ。

これで、ほとんどの軸が完成することになる。


細かいことだが重要なことは、
主人公に聞き役をつくることである。
学園祭委員長(大岡版では韮澤、という名前を設けた)が、
彼の恋の相談の聞き役に回り、
彼の内部の心の声
(いわば原作のハイライト部分)を
外に出させるという役回りを与えている。

これはアニメ版でも似たような役まわりであったが、
親友に相談というよりは、
情報集約センターのような役割で、
ストーリーにとって効果的だったか、微妙な印象だ。


あとは逆算で伏線をつくっていけばよい。
ラストの進々堂への京大生の思い入れを、
最初に印象づけるためのエピソードを創作する。
「ねじれの位置」は、なかなかに京大生っぽくて気に入っている。
鴨川オセロも花火ニアピンも僕の創作である。
そして当然これは、クライマックスの花火の伏線になっているわけだ。



さて、
最後に、タイトルを回収しなければならない。
「夜は短し歩けよ乙女」とは、
どういう意味であろうか、
ということだ。
当然これは、
「夜は短し恋せよ乙女」のパロディである。
恋するを、歩くということに読みかえているわけだ。

ということは、この作品内においては、
歩くことが恋することを象徴しなければならない。


アニメ版では、
この回収は甘かった。
李白の風邪を治したあと、
先輩の下宿に向う乙女に対して、
原作で李白が春の終わりに言ったように、
ただの遊び言葉として言っただけだ。
この時点で乙女は多少の恋心が発生しているが、
恋に向かって歩け、というのは、
竜巻の京都という舞台とミスマッチである。

大岡版では、
ラスト前に、
眠れなくて、ただただその辺を歩く、
という、青春の迷路のような行為に置き替えられている。
学生時代にはよくあることだ。
北白川までいけば夜中までバッティングセンターがやっていたし、
近くには24時間本屋もあった。
青春は不眠である。
そんな感じを出したかった。
恋に悩む京大生は、
きっと一人で鴨川に行く。
哲学の道かも。
そこで何もなく朝を迎え、
一人で帰って来るのである。

二人が偶然出会った場所、
それは他の人にはどうでもいい場所だけど、
二人にとっては最高に大切な場所だ。
それが恋ということだと、
僕は考え、
ナカメ作戦ほか、特別な場所を歩き回る、
という真のクライマックスを、
用意したつもりである。
勿論これは、冬編の朝日を迎えるシーンを翻案しているわけだ。


あとは、「京都を歩く会」
という無理矢理くさいサークルをねつ造するだけだ。
サークル活動イコール恋であることよ。




アニメ版も、
漫画版も、
舞台版も、
どのバージョンも見た。
マジックリアリズムの向こう側に隠された、
童貞のご都合主義を、読み取れていないと感じた。
だから、
どのバージョンも、原作の理解が甘いと僕は考えている。

アニメ版のみ、ジョニーと対決させたのは面白い。
しかしそれならば、
「恋は性欲か、それとも純粋なる思いか」
という古典的乙女心を、
真芯のテーマに持って来るべきだったと考える。
絵の為のギミックにしかなっていないのが、
僕があれを映画脚本として認めない最大の批判点である。


あとアレだな、
あのアニメーターたちは、酒があんまり好きじゃないな。
posted by おおおかとしひこ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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