職業病といっても過言ではないかも知れない。
僕はこないだから無茶をして初めてなったけど、
腱が弱い人や沢山打つ人は、
すでにかかったことがあるかも知れない。
医学的には、三週間キーボード禁止の、絶対安静らしい。
でもそれは無理な話だよね。
字を書かなくていい生活は、そんな長いこと訪れない。
海外旅行でも行ければいいが。
ということで、斬新な治し方。
手書きに戻る。
考えてみれば当たり前の話で、
私たちは肉体の限界までしかものづくりが出来ない。
じゃあ、もともと手の限界までしか出来ないんだ。
それを電子ギアをつけていたようなものだから、
肉体の限界を知らず知らず逸脱しているのだ。
だから、原点に回帰すればいい。
手書きに戻ると、何が生まれるか。
まずアンドゥが出来ない。
漢字も忘れてる人は多いだろう。
僕は手書きと併用しながら生きてるので、幸い忘れていない。
このあたりは表面的で、
文章の本質的なことが違うことに、
手書きに戻ると気づく。
それは、推敲の形である。
手書きのほうが、より洗練された、
文字数の少ない書き方になる。
タイプした文章は、カロリーが高いとでも言うべきか。
手書きの推敲は、
洗練された日本の武術のように、
文章の洗練が違う気がする。
考えてみれば当たり前で、
肉体の苦痛を伴うことは、
なるべく少なくしたいという無意識が働くわけで、
なるべくすっと言えるように、
文章が自然と洗練されていくわけである。
それは読む側になっても同じで、
カロリーが低いほうが摂取しやすい。
いわば、日本料理の出汁みたいに、体にすうっと入りやすいのだ。
油ギトギト豚骨スープを全飲みすれば、体が疲れるのである。
(その疲労が楽しくて、
つまり、「食った感」を求めて、
高カロリーのものを食べるのだが)
エネルギーを使わずにすっと出たパンチが、
真芯にすっと入り、鮮やかに倒れるイメージ。
武道でいうとそんな理想の感じ。
それが、手書きだとできる。
正確に言うと、そうならない限り、
手書きの文章は読みにくいままである。
タイピングした文章は、
洗練が甘いと思う。
勿論、コピペアンドゥ自由な自由度で、
どんどんと洗練することは可能だけど、
コピペアンドゥが肉体に負担をかけないぶん、
洗練のエネルギーが低いと僕は思う。
進化には淘汰圧が必要だ。
デジタルの文章への淘汰圧は、僕は低いと思うのだ。
そりゃそうだ。
デジタルの便利さは、
淘汰圧を取り払う、手軽さにあったはずだからだ。
しかし、淘汰圧を下げた環境ではびこった雑草が、
淘汰圧のキツイところで洗練されまくった名文を、
どれだけ上回るというのだろう。
駄文を書きまくる用途、
たとえばSNSでは、デジタルの手軽さに勝るものはないだろう。
しかし名文を書く用途に、
デジタルが最適とは、僕には思えない。
ということで、アナログの手書きこそが、
名文への淘汰圧のキツイ環境である、
ということを改めて思った次第だ。
腱鞘炎は、神の警告である。
価値のない駄文を量産しても意味がない、
洗練されまくった僅かなる名文へ洗練せよ、という。
ということで、
最近手書きばかりしている。
名文が生まれまくっているかは知らない。
最悪、洗練された少ない文字数をただタイプするだけなので、
タイプする文字数は最小化されていて、
結局腱鞘炎も治る方向になっている。
たまにアナログに戻ろう。
あなたの文章は、手書きよりも駄文になっていることを、
自覚できるかも知れない。
あるいは、最初の出力はアナログもデジタルも似たようなものだが、
名文になるまで推敲するのは、
手書きのほうが上だ、とでも言ってみるか。
たとえば、仕事のメールを全部手書きで書いてみたら?
手書きの文章で分かるほど推敲してみたら?
恐ろしいほど短く、的確な指示になるのではないか?
2017年04月20日
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