2017年04月20日

腱鞘炎の治し方

職業病といっても過言ではないかも知れない。
僕はこないだから無茶をして初めてなったけど、
腱が弱い人や沢山打つ人は、
すでにかかったことがあるかも知れない。

医学的には、三週間キーボード禁止の、絶対安静らしい。
でもそれは無理な話だよね。
字を書かなくていい生活は、そんな長いこと訪れない。
海外旅行でも行ければいいが。

ということで、斬新な治し方。
手書きに戻る。


考えてみれば当たり前の話で、
私たちは肉体の限界までしかものづくりが出来ない。
じゃあ、もともと手の限界までしか出来ないんだ。

それを電子ギアをつけていたようなものだから、
肉体の限界を知らず知らず逸脱しているのだ。

だから、原点に回帰すればいい。


手書きに戻ると、何が生まれるか。
まずアンドゥが出来ない。
漢字も忘れてる人は多いだろう。
僕は手書きと併用しながら生きてるので、幸い忘れていない。

このあたりは表面的で、
文章の本質的なことが違うことに、
手書きに戻ると気づく。

それは、推敲の形である。


手書きのほうが、より洗練された、
文字数の少ない書き方になる。
タイプした文章は、カロリーが高いとでも言うべきか。
手書きの推敲は、
洗練された日本の武術のように、
文章の洗練が違う気がする。

考えてみれば当たり前で、
肉体の苦痛を伴うことは、
なるべく少なくしたいという無意識が働くわけで、
なるべくすっと言えるように、
文章が自然と洗練されていくわけである。

それは読む側になっても同じで、
カロリーが低いほうが摂取しやすい。
いわば、日本料理の出汁みたいに、体にすうっと入りやすいのだ。
油ギトギト豚骨スープを全飲みすれば、体が疲れるのである。
(その疲労が楽しくて、
つまり、「食った感」を求めて、
高カロリーのものを食べるのだが)

エネルギーを使わずにすっと出たパンチが、
真芯にすっと入り、鮮やかに倒れるイメージ。
武道でいうとそんな理想の感じ。

それが、手書きだとできる。
正確に言うと、そうならない限り、
手書きの文章は読みにくいままである。


タイピングした文章は、
洗練が甘いと思う。
勿論、コピペアンドゥ自由な自由度で、
どんどんと洗練することは可能だけど、
コピペアンドゥが肉体に負担をかけないぶん、
洗練のエネルギーが低いと僕は思う。

進化には淘汰圧が必要だ。
デジタルの文章への淘汰圧は、僕は低いと思うのだ。

そりゃそうだ。
デジタルの便利さは、
淘汰圧を取り払う、手軽さにあったはずだからだ。
しかし、淘汰圧を下げた環境ではびこった雑草が、
淘汰圧のキツイところで洗練されまくった名文を、
どれだけ上回るというのだろう。

駄文を書きまくる用途、
たとえばSNSでは、デジタルの手軽さに勝るものはないだろう。
しかし名文を書く用途に、
デジタルが最適とは、僕には思えない。

ということで、アナログの手書きこそが、
名文への淘汰圧のキツイ環境である、
ということを改めて思った次第だ。


腱鞘炎は、神の警告である。
価値のない駄文を量産しても意味がない、
洗練されまくった僅かなる名文へ洗練せよ、という。

ということで、
最近手書きばかりしている。
名文が生まれまくっているかは知らない。
最悪、洗練された少ない文字数をただタイプするだけなので、
タイプする文字数は最小化されていて、
結局腱鞘炎も治る方向になっている。


たまにアナログに戻ろう。
あなたの文章は、手書きよりも駄文になっていることを、
自覚できるかも知れない。
あるいは、最初の出力はアナログもデジタルも似たようなものだが、
名文になるまで推敲するのは、
手書きのほうが上だ、とでも言ってみるか。

たとえば、仕事のメールを全部手書きで書いてみたら?
手書きの文章で分かるほど推敲してみたら?
恐ろしいほど短く、的確な指示になるのではないか?
posted by おおおかとしひこ at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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