世界は光ありきから生まれたらしいが、
ストーリーは目的ありきから生まれる。
しかし、目的単独で生まれてもストーリーにならない。
目的は、結果とセットである。
その目的は見事達成した。(ハッピーエンド)
その目的は最悪の結末を迎えた。(バッドエンド)
その目的は、成功半ば失敗半ばだった。(ビターエンド)
どれにせよ、
その目的が最終的にどうなったかが、
ストーリーのエンドであり、
ストーリーというのは、
その目的の発生から達成までのことだ。
(打ち切りはのぞく)
実は発生からわざわざ描く必要もない。
たとえば「生き延びる」が最大の目的だとしたら、
事故が起こるところから描けばよくて、
「私の目的は何だろうか、生き延びることである!」
と自覚するシーンから始める必要はない。
「歌手になりたくて上京した女の子」を描くとしても、
子供の頃に見たテレビ番組から始める必要はなく、
東京のオーディションあたりからストーリーを始めればよい。
(あとあと誰かにそのテレビ番組のことを話すことは、
とてもよくあることだ。
余程親しくならないとその話はしないだろうね)
目的は発生し、そして終結する。
物理的記録はそれだけだが、
ストーリーはそのうち、必要な、面白い部分だけを取り出す。
たとえば誰かの自伝の映画化は、
父母や生まれから始めることもあるし、
少年の神童ぷりから始めることもあるし、
大学生から始めることもあるだろう。
終わりは死ぬまでやるかもしれないし、
結婚で終わるかもしれない。
自伝といえど映画であるならば、
目的が達成されたところで終わるべきだ。
だから僕の自伝映画なら、
素晴らしい映画監督になり、アカデミー賞を貰うところで終わるべきだね。
そのあとの晩年はカットでいいや。
じゃあ目的を自覚するところ、中学時代や小学校時代のことは、
その後の作風に大きな影響もあるので、
外せないところだろうね。
ストーリーとは、
「その目的が達成したのか?」
がセンタークエスチョンになるような、
ひとつの連鎖のことだ。
だからその目的または達成に関係ない部分はカットするべきだし、
その目的または達成に関係ある部分はカットするべきでなく、
その必要十分の要素が、
ストーリーであると言える。
さて。
では、目的と結果をセットで考えてみよう。
ある女の子に恋をして、ゲットした。(すべてのラブストーリー)
謎の殺人事件を解明し、真犯人を逮捕した。(すべてのミステリー)
悪を退治した。(すべての勧善懲悪)
あたりは、最も原始的なパターンで、最もバリエーションが多い。
喧嘩したが、仲直りした。
遅刻したが、なんとかなった。
なんてのは小さなストーリーにあるパターンだ。
娘が結婚してさびしくなるが、めでたい。(全ての小津。笑)
というのもある。
いずれにせよ、
目的なんてのは、
ある日突然発生するわけではなく、何かのきっかけで発生する。
だから、
「何かのきっかけ」がストーリーの最初に来ることが多いわけである。
さらに重要なこと。
その目的と結果に、興味が持てるかどうか。
買い物しようと町(銀座?)まで出掛けて、
目当てのものを見つけて買ってきた。
という目的と結果は、たいして興味が持てない。
日常によくあることだからだ。
もっと珍しいことにならないと、面白くない。
買い物しようと町まで出掛けたら、財布を忘れて、
今日はもうどうでもいいや、いい天気だしと歌を歌った。
ならば、ちょっと面白いことになる。
日常の平凡を、逸脱しているからである。
この、ちょっと逸脱することが、
平凡なことでない、特別な物語かもしれない、という期待になり、
牽引力になることが多い。
(もっとも、それをうまく完結させられないのは、
風呂敷を広げて畳めない、下手くそのやることだ)
そして、それを平凡に終わらせず、
非凡に終わらせるから、
そのストーリーは非凡だと呼ばれるのである。
さて。
詰まらないストーリーの、
最もよくある例は、
「どうしてこれをやっているか分からない」である。
こういう目的があり、
こういう最終型を目指しているから、
今これをやるべきだ(やらなければならない)、
という三者の関係がはっきりしていないから、
分からなくなるのだ。
目的、最終型、現在との関係を明確に出来れば、
それが是非必要かどうか明確になり、
現在をもっと面白く書けるはずだ。
はじめに目的がありき。
それはゴールとセット。
それらは非凡でなければならない。
そしてそれらは、途中でぼやけてもいけない。
げに面白いストーリーは、難しい。
2017年04月20日
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