メアリースーに関しては何度も何度も書いてきている。
その発見や指摘もしてきた。
じゃあ退治しようじゃないか。
「主人公の成功を、何段階にも分けて描く」ことを考えたまえ。
メアリースーの特徴は、
「何か一発勇気を出したら、何もかもうまくいく」
ようなご都合主義である。のび太症候群といってもいい。
努力や苦労をせずにうまくいきたい、
という願望の反映だ。
さらに進めると、
「私はそうありたいのだが、
他人がそうだとムカつく」である。
だから、
「自分は一発でうまくいきたいが、
他人にはそうであってほしくない」のだ。
「これは作者も観客も同様である」
ということを自覚していただきたい。
メアリースーな作者にとっては、
主人公は自分であるが、
観客にとっては他人であり、自分ではない。
だから主人公が、
「苦労もせずに一発でうまくいくと、ムカつく」のだ。
ということで、
苦労を何段階にも分けてみるのが、現実的にはおすすめの方法論である。
一発でうまく行きそうになったら、
失敗させてみよう。
失敗にもクリエイテビティーが必要だ。
そこから学ばなくてはならないからだ。
失敗したからといって、他者が助けてくれるのを望んでも、
自分でやらなければならないように追い込もう。
他者が助けてくれる願望は、
メアリースー=自分の願望であり、
「たかが一回失敗したから他人が助けてくれて大成功する他人の話」
は、観客から見てたいして面白くない。
主人公はすぐ失敗する。
しかし諦めない。
それだけの動機があるからだ。
諦めが悪いと言われようと、迷惑だろうと、
主人公は一回言い出しっぺになったことは、
何度もトライしなければならない。
たとえ馬鹿だと言われようが、責任を取らなければならない。
それは恥をかいたり、後ろ指をさされたり、
怒られたり、失望されたり、失ったりすることも含む。
(というか、そういうことがなければ不自然だ)
メアリースーに取り憑かれた人は、
一発でうまくいきたがる。
勇気を出したら大成功、
偶然の一致で大成功、
勇気を出して行動したら偶然周りのしてほしいことで大成功、
一言言ったら大成功、
工夫を思いついたら大成功、
誰かが助けてくれて大成功。
これを、段階的に分ければメアリースーに見えなくなる。
何故なら、「部分的成功の状態」を描かなければならないからだ。
少し成功したがまだ自信がない状態で、
しかもあとには引けないので責任を取らなければいけない状態で、
どうしていいか分からない状態で、
しかしヒントを必死に探している感じで、
不安が続く状態で、
日常はやって来るのだが、
もはや普通の日常では暮らせない状態。
実はそれが、
第一ターニングポイントから、
クライマックスの決着までずっと続く、
ということを忘れてはならない。
一幕は、本格的行動を開始するまでを描くから、
「一発でうまくいくかどうか分からないけれど、
とにかく行動を起こす」という、
あとには引けない所で終わる。
メアリースーに取り憑かれると、
このあとすぐ一発で成功して、話が終わってしまう。
つまり、35分までの話しか、
メアリースメソッドでは描けない。
これを120分に引き伸ばすから、
行動を起こすのが終わり10分前みたいな、
淡々と糞みたいに詰まら映画ができあがる。
(例:「落下する夕方」「へびいちご」、実写「ガッチャマン」)
「すぐ一発で成功せず、
少しずつ成功していくのを、
段階的に描く」と心がければ、
途中で失敗も、瓢箪から駒も、
辛い挫折も、そこからの立ち上がりも描ける。
そしてそれが起伏であり、
山あり谷ありという物語というものだ。
なぜ成功することが出来たのか。
なぜ失敗してしまったのか。
どう反省し、どう立ち直ったのか。
それが、何ターンあったのか。
(1ターンでは、「段階的成功物語」としては、
階段が足りないだろう。数ステップは必要だろう)
そこにどんな反対や妨害や障害があったのか。
(他者のコンフリクト)
そこにどんな工夫や思いや突破があったのか。
物語は、それを、
論理的に(つまり矛盾や無茶がなく)、
リアルに、
面白おかしく、
夢を持って、
描かなければならない。
そうであるべき物語に、
一発で成功する作者の願望投影を書いても、
競うジャンルが違う、としか言いようがない。
(一方、ラノベは、
「一発で成功する作者のメアリースー合戦」
の競い合いのような印象がある。
あくまで印象であり、実態は違うかもしれないが)
主人公は、一発で成功しない。
失敗し、悩み、工夫し、挫折せず、
傷つき、責任を取り、誰かを助け、誰かに助けられ、
一人で、仲間で、「ついに」ことをなしとげる。
成功したり失敗したり、
諦めかけたり、完全にやる気を失ったり、
絶望したりして、
最後には勝利をつかむ。
その色々な様相と、今どの辺の成功段階にいるかを描くのが、
ストーリーといっても過言ではないのではないだろうか。
ちなみに、
短編ならば、
その成功物語をメアリースー的な一発成功に短縮しやすく、
だから長編では目立つメアリースーをごまかすことが可能だ。
今週発表された藤本タツキの短編
「目が覚めたら女の子になっていた病」は、
まさにそのようなメアリースー願望の作劇となっていたので、
他山の石として要チェックである。
(ファイアパンチは新たな展開に入ったが、
この段階では結論づけられない要素がたくさんある。
我々が現段階で学ぶことがあるとしたら、
「悪役が話を引っ張る」という経験則かもしれない。
トガタが悪役代わりで、ドマは最後まで悪役足りえなかった。
スーニャがトガタ以上に話を引っ張る悪役ならば、
この先は安泰であるが、現段階ではそうではない)
2017年04月24日
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