2017年04月24日

メアリースーを倒すために

メアリースーに関しては何度も何度も書いてきている。
その発見や指摘もしてきた。
じゃあ退治しようじゃないか。

「主人公の成功を、何段階にも分けて描く」ことを考えたまえ。


メアリースーの特徴は、
「何か一発勇気を出したら、何もかもうまくいく」
ようなご都合主義である。のび太症候群といってもいい。
努力や苦労をせずにうまくいきたい、
という願望の反映だ。

さらに進めると、
「私はそうありたいのだが、
他人がそうだとムカつく」である。
だから、
「自分は一発でうまくいきたいが、
他人にはそうであってほしくない」のだ。
「これは作者も観客も同様である」
ということを自覚していただきたい。

メアリースーな作者にとっては、
主人公は自分であるが、
観客にとっては他人であり、自分ではない。
だから主人公が、
「苦労もせずに一発でうまくいくと、ムカつく」のだ。


ということで、
苦労を何段階にも分けてみるのが、現実的にはおすすめの方法論である。

一発でうまく行きそうになったら、
失敗させてみよう。
失敗にもクリエイテビティーが必要だ。
そこから学ばなくてはならないからだ。
失敗したからといって、他者が助けてくれるのを望んでも、
自分でやらなければならないように追い込もう。
他者が助けてくれる願望は、
メアリースー=自分の願望であり、
「たかが一回失敗したから他人が助けてくれて大成功する他人の話」
は、観客から見てたいして面白くない。

主人公はすぐ失敗する。
しかし諦めない。
それだけの動機があるからだ。
諦めが悪いと言われようと、迷惑だろうと、
主人公は一回言い出しっぺになったことは、
何度もトライしなければならない。
たとえ馬鹿だと言われようが、責任を取らなければならない。
それは恥をかいたり、後ろ指をさされたり、
怒られたり、失望されたり、失ったりすることも含む。
(というか、そういうことがなければ不自然だ)

メアリースーに取り憑かれた人は、
一発でうまくいきたがる。
勇気を出したら大成功、
偶然の一致で大成功、
勇気を出して行動したら偶然周りのしてほしいことで大成功、
一言言ったら大成功、
工夫を思いついたら大成功、
誰かが助けてくれて大成功。

これを、段階的に分ければメアリースーに見えなくなる。

何故なら、「部分的成功の状態」を描かなければならないからだ。
少し成功したがまだ自信がない状態で、
しかもあとには引けないので責任を取らなければいけない状態で、
どうしていいか分からない状態で、
しかしヒントを必死に探している感じで、
不安が続く状態で、
日常はやって来るのだが、
もはや普通の日常では暮らせない状態。

実はそれが、
第一ターニングポイントから、
クライマックスの決着までずっと続く、
ということを忘れてはならない。


一幕は、本格的行動を開始するまでを描くから、
「一発でうまくいくかどうか分からないけれど、
とにかく行動を起こす」という、
あとには引けない所で終わる。

メアリースーに取り憑かれると、
このあとすぐ一発で成功して、話が終わってしまう。
つまり、35分までの話しか、
メアリースメソッドでは描けない。
これを120分に引き伸ばすから、
行動を起こすのが終わり10分前みたいな、
淡々と糞みたいに詰まら映画ができあがる。
(例:「落下する夕方」「へびいちご」、実写「ガッチャマン」)

「すぐ一発で成功せず、
少しずつ成功していくのを、
段階的に描く」と心がければ、
途中で失敗も、瓢箪から駒も、
辛い挫折も、そこからの立ち上がりも描ける。
そしてそれが起伏であり、
山あり谷ありという物語というものだ。


なぜ成功することが出来たのか。
なぜ失敗してしまったのか。
どう反省し、どう立ち直ったのか。
それが、何ターンあったのか。
(1ターンでは、「段階的成功物語」としては、
階段が足りないだろう。数ステップは必要だろう)

そこにどんな反対や妨害や障害があったのか。
(他者のコンフリクト)
そこにどんな工夫や思いや突破があったのか。

物語は、それを、
論理的に(つまり矛盾や無茶がなく)、
リアルに、
面白おかしく、
夢を持って、
描かなければならない。


そうであるべき物語に、
一発で成功する作者の願望投影を書いても、
競うジャンルが違う、としか言いようがない。

(一方、ラノベは、
「一発で成功する作者のメアリースー合戦」
の競い合いのような印象がある。
あくまで印象であり、実態は違うかもしれないが)



主人公は、一発で成功しない。
失敗し、悩み、工夫し、挫折せず、
傷つき、責任を取り、誰かを助け、誰かに助けられ、
一人で、仲間で、「ついに」ことをなしとげる。
成功したり失敗したり、
諦めかけたり、完全にやる気を失ったり、
絶望したりして、
最後には勝利をつかむ。

その色々な様相と、今どの辺の成功段階にいるかを描くのが、
ストーリーといっても過言ではないのではないだろうか。



ちなみに、
短編ならば、
その成功物語をメアリースー的な一発成功に短縮しやすく、
だから長編では目立つメアリースーをごまかすことが可能だ。

今週発表された藤本タツキの短編
「目が覚めたら女の子になっていた病」は、
まさにそのようなメアリースー願望の作劇となっていたので、
他山の石として要チェックである。
(ファイアパンチは新たな展開に入ったが、
この段階では結論づけられない要素がたくさんある。
我々が現段階で学ぶことがあるとしたら、
「悪役が話を引っ張る」という経験則かもしれない。
トガタが悪役代わりで、ドマは最後まで悪役足りえなかった。
スーニャがトガタ以上に話を引っ張る悪役ならば、
この先は安泰であるが、現段階ではそうではない)
posted by おおおかとしひこ at 13:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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