2017年04月26日

主人公と観客の間に、強い絆をつくること

これに成功しないと、名作になることは難しい。

僕は大きくふたつやり方があると考えている。


ひとつは感情移入、
もうひとつは好きという感情だ。


このふたつは誤解されることが多いので、
僕なりの感情移入論を読んでほしい。
僕なりの感情移入の定義は、
「具体的なディテールは全く違うのだけど、
自分が似た境遇に会い、似た気持ちになったことがある
(あるいはその感情は理解できる)」
になることである。

たとえば告白する勇気のない中学生男子を描けば、
中学生男子でなくても、
男子でなくても、
勇気の出ない人全てが感情移入することができる。

特別な例(告白できない中学生男子)で、
一般に通ずる感情(勇気のなさ)を共有するのである。

うまく描けば、
上司にガツンと言えないサラリーマンも、
旦那の家族に文句を言いにくい専業主婦も、
恋する大学生も、
恐怖を感じた子供も、
勇気溢れる戦士ですら、
「その勇気の出ない感じ、わかるわあ」
と感じるようにすることができる。

否、うまく描けば、ではなく、
すべからくストーリーというのは、そのように書かれるべきなのである。

それを書く実力がないから、
OLターゲットだからOLの話を、
なんて狭い範囲で狭い範囲を狙う、
共感のメカニズムを感情移入と勘違いするのである。
感情移入は、誰でも思い当たる節さえあれば、
その感情はわかるわあ、
とならなければならない。
日本のOLでも、外人の軍隊の話に入れなければ、
マスで見る映画の意味がないではないか。

脚本とは、本来そのように書かれなければならない。
(実のところ、書くのも、書かれたものがそうであるかも、
判定するのに実力がいるため、
昨今の感情移入はぐだぐだで、
狭い範囲のターゲットを狙う、こすい作戦をとり、
シュリンクが進んでいるのだ)


この感情移入に関しては、過去記事に沢山書いているので参考にされたい。

今回の本題は、
好きという感情を利用するほうだ。


ぶっちゃけてしまうと、
「好かれるタイプを主人公にする」
という考え方のことである。

しかし誰もが好む、
最高のオリジナルキャラクターをつくることは難しい。
似たキャラは過去に沢山いるからである。

だから大抵は、
「作者が物凄い好きなタイプを描ききる」
という執念のようなもので描かれることが多い。
(大体は異性になる。同性でそこまで執着のある人はいないし、
同性ならばどうしても自分を反映させてしまうから)

それがたまたま大衆の好みであれば、
たまたまヒットするかも知れないが、
たまたま大衆の好みでなければ、
それはヒットしないだろう。

しかし、自分の執着のある好みを描いているわけだから、
恋に盲目状態であり、
その客観性はないことに注意したまえ。

だから、
好みでキャラクターをつくることは、
合っているが間違っている。
感情的高ぶりがほんものになるという利点と、
それが当たるとは限らないし外れてることを自覚できない欠点を、
あわせ持つ諸刃の剣であるということだ。

しかしながら、
すべからく名作というのは、
執着のある好みで描かれたキャラクターである。
(外れた感性なら癖の強いキャラクターと呼ばれるだけの話)

臆せずに、好みを爆発させたほうがいい。


問題は、
感情移入ということが出来ずに、
すなわちシチュエーションで興味をひき、
違うのだけど似た気持ちになったことがある、
ということを引き出しもせずに、
好みばかり描くことである。

僕が二次創作を否定する(一次創作をするならば敵視せよ)
のは、
好みばかり描き、好きな人同士で愛でることばかりして、
知らない人を引きずり込むだけの感情移入的方法論を無視する、
広がりの狭さにおいてだ。
そればかりやっていると、安心だから、
出来ないことをマスターしようという厳しさに、永久に至らないのである。

ストーリーテリングとは、一種の修行によって、
ある程度身につけられる技能の側面がある。
しかしそれは、やってみないと出来ないし、
やってみて自覚して修正していく、
とてもしんどいことをしなければならない。

ただ好きなものを愛であっているだけでは、
その厳しさに耐えられないと僕は考えている。

(勿論最初から出来る、才能のある人は別だ。
しかし、才能も努力なきところでは磨かれない。
トップをとる人は、自分なりに努力をし、
自分で自分の才能を磨く客観性を持ち続けた人である。
イチローなどは、自分の理論をあれだけ語れるではないか。
俺もだいぶ語っている。トップをとるかは今後わかるだろう)



さて。

好きなだけじゃうまくいかない。
感情移入という技術的問題をクリアしてからなら、
いくらでも好きを爆発させよう。

好きという感情が嫌いな人はいない。
ただ、好きじゃない人は好きという感情が嫌いなことを、
常に覚えておくことだ。


仲間うちだけで愛でるジャンルは、
この枠の中に入ってしまい、
新しい会員をつくろうとしていない。
だから、シュリンクしていく。

僕は猫が好きではないから、
猫好きに気持ち悪さを感じている。
閉じているからである。
ちょっと好きになっても、彼らのせいで猫好きの輪に入りたくない。
そんな感じ。



誰かが言ったのだが、
「これは自分一人だけに向けて書かれた物語である、
と誰もが感じるものが最もよい」
ということだ。
前者が好きという感情、
後者が感情移入、ということだ。

(誰かが、西原理恵子はそういうのがうまい、
と言っていた。誰もが僕がサイバラの一番の理解者だ、
と思うように出来ている、と。
女はそういうのがうまいのかも知れず、
男はそういうのはうまくないかも知れない)
posted by おおおかとしひこ at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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