というのをどこかで見て衝撃を受けた。
読むこと書くこと全般の話なので、
脚本論カテゴリでやってみる。
先日少し話題になった。
「文章を黙読するときに、
心の中で声が聞こえる人と、
聞こえない人がいる」というやつ。
僕は聞こえない派だが、
聞こえる人が8割にのぼるという。
僕の場合、正確に言うと、
最初は多少聞こえるが、
集中してくると静かになる。
僕はうるさいところでもイヤホンなしに作業出来るだけの集中力を持っているので、
そのこととも関係してくるかもしれない。
小説や脚本の場合は、
最初は聞こえないけど、キャラが立ったら、
だんだん聞こえるようになり、
さらに集中が進むと、また静かになる感じ。
ところが、
多くの人は、
最初から最後まで台詞も地の文も声が聞こえるのだそうだ。
本好きの人が読むのが速いのは、
声が聞こえていないかららしい。
僕は聞こえてないけど本は好きじゃなかった。
正確に言うと図書館が嫌いで本嫌いになったんだと思う。
ここまで読む話。
あなたはどうだろう。
人によって違うし、集中力で変わる人もいるだろう。
次に書く話だ。
書くときに、声は聞こえるか?
僕は、手書きとフリックでは聞こえていない。
意味を追い続けている。
しかしタイピングするときは、
どうやら聞こえているようなのだ。
これが自分の限界を決めていたのか、
と自覚した次第だ。
ストーリーを書いていると、
最初は自分が世界を支配しているのだが、
次第にキャラクターが動きだし、
後半からは自分が記録係になったかのように、
ストーリーに書かされているような感覚になる。
それを、筆が乗っているともいうし、
キャラが勝手に動くともいうし、
憑依したともいう。
そのときも僕の中では声が聞こえていない。
意味を追い続け、意味を繋ぎ続けているだけだ。
それはもちろん手書きの時限定であった。
だから僕は手書き推奨派だったのかも知れない。
あなたはどうだろう。
僕が、タイピングのことにこれだけ執心しているのも、
QWERTY配列を扱うときに、
心の中で声を出していて、
心の中で声を出さないことが執筆だと思っていて、
そうならないタイピングにストレスを感じていて、
心の中で声を出さないタイピング環境が、
欲しいからかも知れない。
先日書いたとおり、
僕は薬指も小指もダメだ。
人差し指だけが異常に器用なバランスである。
だからキーボードを使うと、
手のバランスが悪くなり、
心の中で声を出さないと打てないのだろう。
つまりは、キーボードに僕は緊張していて、
言葉のほうに集中出来ていないのである。
フリックだとそうじゃないのは、
電車のなかでいつもここを書いてる、
日課のようなものだからかも知れない。
人差し指しか使わないのもデカイかも。
しかし、フリックで長文はきつい。
あなたがタイピングするとき、
声は聞こえるか。
聞こえないなら、速いかも知れない。
速くなるためには、
聞こえないように集中出来るほどキーボードに慣れるか、
そもそも頭の中の声を止める訓練をしなければならないわけだ。
そうなるのがカタナ式であるように、
次のv7を練り上げられたら、と考えている。
カタナ式で打ってるときは、
かなりの確率で声が聞こえていないんだよね。
2017年04月26日
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