僕はごちゃごちゃしてきたら、
寝て整理するといいとずっと言ってきている。
寝たら忘れる。だから整理される。
考えがである。
その整理は、部分と全体がある。
シーンを書いているとき、
寝て整理されるのは、
そのシーンに関することだけだと僕は思う。
ブロックを書き終えて、
はじめてそのブロックに対することが、
寝て整理することができる。
全体を整理できるのは、
全体があるときだけである。
これはあくまで経験則だ。
逆に言うと、
全体がないときは、いくら寝ても全体は整理されない。
たぶん人間の認識機構は、
「今とらえている枠内を、寝て整理する」
という機能になっているような気がする。
だから部分を書いているときは、
寝て起きたら、
あそこの細かい部分を修正しようとか、
あれとあれを入れ換えて表現しようとか、
あれとあれのコントラストを作ろうとか、
部分のことしか思いつかない。
逆に言うと、
全体のことについて新しいアイデアを思いついたり、
あれとあれをこうしてみようと思ったり、
整理するとこういうことか、と思ったりするのは、
全体が出来ているときしかない。
さらに言うと、
全体のことについて整理されていない物語は、
やはりごちゃごちゃしていて面白くない。
練りが足りないという感じがする。
面白いときは、
全体が練られていて、部分も練られているものだ。
だじゃれだけど、
寝るは練ることだ。
練るには寝なければならない。
多分寝て起きると、
「今とらえている枠内」の、要らないものを忘れることが出来る。
でも完全に忘れるわけではない。
今の意識から脱落させることができる、 という感じだ。
もし再び必要になるなら、
自分で思いついたものである限り、思い出すことは出来る。
(昔は思い出せないのではないか、
と不安だったが、なんとかなるもんだよ。
逆にはじめて思いついた!と、前にも思いついたことを思いついて気づくぐらいだ。
人間というのは、同じ思考をするのだ)
「今とらえている枠内」を、全体に波及させるには、
全体を書き終えていないと出来ないことだ。
リライトが必要なのは、つまりこのためである。
少ししか目の前が見えていない連載形式が、
全体で見ると破綻や漏れや小矛盾があるのは、
つまりこのためである。
だからまともに、きれいに完結する漫画は少ない。
映画は連載ではないから、
きれいに、まともに完結しなければならない。
それゆえに、
必ず全体で見るとどうなのか、
という整理がされているべきなのである。
あなたは日々少しずつ書くことが書くことである、
なんて想像をしているかも知れない。
しかし白紙に字を埋めていくという行為は、
書くということの一部でしかない。
一部では一部の練るしか出来ない。
全体を練るほうが時間がかかる。
全体で見たり部分で見たり全体で見たりするからだ。
なんだ、結局まず完結させなくてはいけないではないか。
部分を書きながら、寝て整理する。
全体が書けたら、寝て整理する。
全体や部分を直して、寝て整理する。
以下繰り返して、
練りというのは進んで行く。
練られていないものは面白くない。
だから突貫なんて言語道断で、
たっぷり寝ながら作っていくしかないと思うんだ。
寝ないで作った突貫は、
自分のなかにある何かを吐き出して終わりで、
吐き出し終えたとき、
貯金がなくなったときからが、
書くということの本当の生活のはじまりだ。
そのためには、寝ることだ。
忘れて全体を眺めることが出来れば、
これしきしか自分はしてないのか、
という客観視が訪れて、絶望的になる。
そこから練って、はじめて他人に出せるレベルに仕上がってゆくのだよ。
寝て起きた自分は、一種の他人だ。
その連続的自己批評が、自分の作品を磨いていく。
つまり自己批評と、作る側の闘いになってゆく。
その自己批評を唸らせるほどの作品を作るべし。
(大抵の場合、その自己批評に負けてやめてしまう。
その自己批評も、寝て起きたら忘れてるから、
次の日に続けるといいよ。
ほんとに大事な自己批評は、
寝て忘れても、
またはじめて思いついたようにやってくるから安心したまえ)
2017年04月29日
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