2017年04月29日

寝て整理する、寝て整理する、寝て整理する

僕はごちゃごちゃしてきたら、
寝て整理するといいとずっと言ってきている。

寝たら忘れる。だから整理される。
考えがである。

その整理は、部分と全体がある。




シーンを書いているとき、
寝て整理されるのは、
そのシーンに関することだけだと僕は思う。

ブロックを書き終えて、
はじめてそのブロックに対することが、
寝て整理することができる。

全体を整理できるのは、
全体があるときだけである。
これはあくまで経験則だ。


逆に言うと、
全体がないときは、いくら寝ても全体は整理されない。

たぶん人間の認識機構は、
「今とらえている枠内を、寝て整理する」
という機能になっているような気がする。

だから部分を書いているときは、
寝て起きたら、
あそこの細かい部分を修正しようとか、
あれとあれを入れ換えて表現しようとか、
あれとあれのコントラストを作ろうとか、
部分のことしか思いつかない。

逆に言うと、
全体のことについて新しいアイデアを思いついたり、
あれとあれをこうしてみようと思ったり、
整理するとこういうことか、と思ったりするのは、
全体が出来ているときしかない。

さらに言うと、
全体のことについて整理されていない物語は、
やはりごちゃごちゃしていて面白くない。
練りが足りないという感じがする。
面白いときは、
全体が練られていて、部分も練られているものだ。

だじゃれだけど、
寝るは練ることだ。
練るには寝なければならない。

多分寝て起きると、
「今とらえている枠内」の、要らないものを忘れることが出来る。
でも完全に忘れるわけではない。
今の意識から脱落させることができる、 という感じだ。
もし再び必要になるなら、
自分で思いついたものである限り、思い出すことは出来る。
(昔は思い出せないのではないか、
と不安だったが、なんとかなるもんだよ。
逆にはじめて思いついた!と、前にも思いついたことを思いついて気づくぐらいだ。
人間というのは、同じ思考をするのだ)


「今とらえている枠内」を、全体に波及させるには、
全体を書き終えていないと出来ないことだ。
リライトが必要なのは、つまりこのためである。

少ししか目の前が見えていない連載形式が、
全体で見ると破綻や漏れや小矛盾があるのは、
つまりこのためである。
だからまともに、きれいに完結する漫画は少ない。

映画は連載ではないから、
きれいに、まともに完結しなければならない。

それゆえに、
必ず全体で見るとどうなのか、
という整理がされているべきなのである。


あなたは日々少しずつ書くことが書くことである、
なんて想像をしているかも知れない。
しかし白紙に字を埋めていくという行為は、
書くということの一部でしかない。
一部では一部の練るしか出来ない。
全体を練るほうが時間がかかる。
全体で見たり部分で見たり全体で見たりするからだ。

なんだ、結局まず完結させなくてはいけないではないか。

部分を書きながら、寝て整理する。
全体が書けたら、寝て整理する。
全体や部分を直して、寝て整理する。
以下繰り返して、
練りというのは進んで行く。

練られていないものは面白くない。
だから突貫なんて言語道断で、
たっぷり寝ながら作っていくしかないと思うんだ。


寝ないで作った突貫は、
自分のなかにある何かを吐き出して終わりで、
吐き出し終えたとき、
貯金がなくなったときからが、
書くということの本当の生活のはじまりだ。

そのためには、寝ることだ。
忘れて全体を眺めることが出来れば、
これしきしか自分はしてないのか、
という客観視が訪れて、絶望的になる。
そこから練って、はじめて他人に出せるレベルに仕上がってゆくのだよ。


寝て起きた自分は、一種の他人だ。
その連続的自己批評が、自分の作品を磨いていく。
つまり自己批評と、作る側の闘いになってゆく。
その自己批評を唸らせるほどの作品を作るべし。

(大抵の場合、その自己批評に負けてやめてしまう。
その自己批評も、寝て起きたら忘れてるから、
次の日に続けるといいよ。
ほんとに大事な自己批評は、
寝て忘れても、
またはじめて思いついたようにやってくるから安心したまえ)
posted by おおおかとしひこ at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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