練る、ということは、構造をシンプルにしていくことだ。
破綻が少ない(嘘を塗り重ねなくていい)。
あっても発見しやすく、直しやすい。
最もいいのは、
把握するルールが減っていくことだ。
ストーリーとは一種の論理である。
だから結論に至るための、
前提というのがいる。
たとえば世界観であるとか、
主人公の設定とか、
人物関係とか、
事件の概要などである。
構造がシンプルであるというのは、
つまりはこれらが少なくてすむ、ということだ。
把握するルールが少なくてすむと、
つまりは、頭のなかで負担が少ない。
ということは、
「想像がふくらむ」のである。
物語の最大の楽しみは、
見る側が想像を膨らませ、
この先(時間的)を想像したり、
この向こう(空間的)を想像したり、
そこに隠された秘密(過去)を想像したり、
つまりは与えられた以上の世界を、
妄想することにある。
オープンワールドなんて所詮有限だ。
物語は、書いてないところを想像させることで、
無限の広がりを持つのである。
だから、想像は創造にまさる。
この想像させるためには、
ルールが多くてはいけない。
想像がしにくくなるからである。
難しいSFが敬遠されやすいのはそのためだ。
(逆に、読解して攻略するという楽しみもあるのだが、
全員の素養は同じではない。
だから、全員の素養がほぼ同じである、
ミステリーは人気である)
ここまではあくまで一般論。
ここから、創作論。
ルールをシンプルに出来ないのは、
怖いからである。
私たちは嘘をついて世界をつくる(フィクション)。
その破綻を繕うために、嘘に嘘を重ねていく。
だからルールが多くなる。
ルールを減らすと、想像されて、嘘がばれやすくなる。
想像して遊ぶには物足りない世界だと、
ペラペラだとばれてしまう。
だから、ルールを減らせないのである。
ほんとうに豊かな想像の膨らむ世界は、
ルールがシンプルだ。
しかしそんなオリジナリティに達せられないから、
嘘を塗り重ねることで、ばれないようにするのである。
方法はふたつ。
王道は、ルールの少なくて済む豊かな世界をつくることだ。
たとえば「ズートピア」では、
草食動物も肉食動物も暮らす世界があることと、
肉食の本能が「今は」抑えられている、という、
二つのシンプルなルールしかない。
そして二番目のルールがドラマを引き起こす。
奇道は、
複雑にして一見理解できない迷路を作ってしまうことだ。
これは一種の詭弁になる。
デスノートは、特に後半そうなってしまったよね。
「マトリックス」はどっちだ?
僕は王道だと思う。
一見複雑な設定のハードSFだけど、
よく考えてみれば、機械の支配から脱出する、
という王道のストーリーにディテールが貼り付いているだけだからだ。
そこにVRを持ってきたことが、革命的に新しかっただけだ。
ルールは二つ。
この世界はAIに支配されている、
人間はバーチャルの夢を見させ続けられていて、それがこの架空世界。
あとはディテールに過ぎない。
あなたの物語は、どっちを目指すのか。
王道には才能と努力と、ものすごい練りがいる。
奇道も同様だ。
しかし王道は、みんなに想像の膨らむ世界を与える。
奇道は、ついていくので精一杯で、
時に失敗する。
(下手くそはこちらでごまかすので、一般に奇道は失敗作だらけである)
どっちを目指してもいい。
僕は、シンプルなほうが最終的に勝つと思う。
あとは、それが想像の膨らむ世界になるまで、
どれくらい練られるかということだと思う。
把握するルールが少ないこと。
そこに至ることが、実は一番難しい。
達人の技ほど、動きが最小でシンプルなものだ。
武術や料理や運動の達人なら、
同じ動きに集約していけばいいけど、
僕らは毎回違うものを作らなきゃいけない。
それが創作である。
2017年04月29日
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