親指シフトのキャッチコピーに、
思考が直接キーボードに打てる、
それはまるで「指がしゃべる」ようなものだ、
なんてことを謳う場合がある。
(そもそもQWERTYローマ字を仮想敵として、
書かれたコピーではあると思うが)
僕はカタナ式のスピードがそうなってきた。
今フリックより速く、
手書き(速く書くのが前提の崩し字)と同等だ。
指がしゃべるとはどういう状態か。
結局、「思考そのものとは、夢のようなあやふやな状態」
だということがなんとなく分かってきた。
どういうことかと言うと、
「思考とは、文章のようなちゃんとしたものではない。
もっとパッとした思いつきにすぐ引っ張られたり、
その場の思いがうわーっと広がったり、
すぐに場面転換してしまったり、
首尾一貫性や論理性や構造性があるものではない」
ということのような気がするのだ。
誰かとおしゃべりするときも、独り言も、夢も、
そういう意味で同じようなものではないか、
というのが僕の仮説だ。
誰かと飲み屋で話すときも、
話題なんてコロコロ変わるし、
その場で思ったことを発言するだけだし、
正式な態度表明とか論理の組み立てではなく、
思っていたこと、準備してきたことの披露の場ではない。
落ちをつけなければならない訳ではないし、
この会話の意義を問う訳ではない。
ああ楽しかった、それだけでいいはずだ。
(男同士ではそうもいかず、
なにがしかの落ちや意義のけりをつけたいものだが。
この店は酷かったな、とか)
どうでもいい喫茶店の会話や、飲み屋での会話と、
独り言や夢は、似たようなものだ。
「最初から最後まで無駄のない、
最後まで首尾一貫した論理に基づいた、
なんらかの意味のある文章」でない、
という意味で。
逆に言えば、
文章を書くということは、そのようなことをしなければならない、
ということだ。
思考が必ずしもそうなっていないものを、
文章としてまとまるように、
制御しなければならない、
ということだと、僕は考える。
だから、
もし「指がしゃべる」ような入力形態がほんとうなら、
「支離滅裂の、感情だけの断片が記録されるだけで、
文章にならないもの」になるんじゃないか、
というのが僕の仮説だ。
すなわち、「思考入力が実現したとしても、
それは必ずしも文章の体にならない」
ということだ。
「紙に手で書く」「そののち何度も書き直して清書する」
という行為は、
その適当な思考というものを、論理に纏めるのに向いているのではないか、
というのが、最終的な僕の結論だ。
「指がしゃべる」状態は、
親指シフトでも、ひょっとしたらローマ字入力でも、
フリックでも実現できているかも知れない。
しかしバカ発見器として名高いツィッターは、
恐らく「文章ではなく、思ったことのだだもれ」
ということになった。
それは、我々が思うことをだだもれにしたとしても、
何にもならない、ということを示しているように思う。
事実、ツィッターを介して何か論理的な主張をしている人は、
140字の制限をやぶり、
一連の文章を140字ごとに分割して披露している。
(たまたま短ければ140字におさめるだけのこと)
これはツィッターの入力機構で書いたのではなく、
別の何かで書いたものを、ツィッターにコピペして発信するのだろう。
そうでなければ、第一の発言から最後まで、首尾一貫しないだろうから。
その場の思いつきで書いていると、
必ずどこかで曲がっていく。
それは普段から文章を書いていれば、
誰もが経験することだよね。
(経験的には、2500〜2000字ぐらいまでなら、
なんとなく勢いで書いてもラストまで制御できる。
多分このブログの一記事は、
数えてないけどそんな範囲だと思う)
もちろん、
ツィッターやブログは、誰もが発信できる気軽なメディアというのが売りだ。
つまり、
文章のクラスにせずとも、
思考だだもれでもかまへんで、
と、発言の敷居を下げたのである。
それ自体は発言の自由化みたいなことで、喜ばしいかも知れないが、
平均の思考レベルは、下がったようなものである。
僕は時々ネットの発言は、動物の叫び声でしかない、
と斬るのは、そういうことを意味するわけだ。
(まあここを書いてるのも、
僕の思考が単にだだもれになっていて、
文章クラスとしては大したことないかも知れないよ)
昨日カタナ式v7の、4時間耐久をやってみた。
トランス状態と言えばいいのかな、
指がしゃべるような感覚が訪れて、
「思いが字になるのだから、
あとは思うだけでいいのですよ」という感じになった。
そのときに思ったことは、
「俺のナマの思いは、大したことない」という発見であった。
その衝動のようなものを、煮詰めて、
整形して、無駄や誤解や曲解を除いて、
立派な論理の通ったものを作ることが文章を書くということではないか、
という思いに至ったわけで、
それを整理するためにここに書いている。
親指シフトは、
「ローマ字入力は効率が悪い。
頭のなかでローマ字に変換しなければならないし、
二個文字打たなきゃならない」と、
ローマ字入力を批判する。
これに対してローマ字陣営は、
「慣れてしまえば無意識に指が動くから、
頭でローマ字変換をしてる訳でもないし、
二打を一打のように指が動くから、意識としては一打一文字」
などと反論する。
どちらも、
「機構の良し悪しを議論していて、
理想は思考が文字になること」を最終形にしている。
(第三の派閥、漢字直接入力派は、
そもそも読みで打ち込み変換することもおかしい、
と言う)
ところが、思考がストレスなく文字になったら、
今度は恥をかくということが、
ようやく分かってきたのではないかなあ。
「思うことは、文章ではない」
ということが。
だから、指がしゃべると、
夢を記録したようになる。
独り言を全部記録しても、
似たようなものになるだろうね。
ことばは、独り言や夢ではない。
誰かに伝えるための媒介である。
自分が自分で納得する媒介でもあるから、
これが混同されやすい。
表現ということをわかっているか、
というのはこの辺が関係しているような気がするんだ。
ということで。
カタナ式は、指がしゃべる段階まで来た。
あとは何を思うかだけ、
というところまで来た。
じゃあ結局は、
頭のなかのものを猛烈なスピードで崩し字で吐き出して、
それを何度か書き直して、徐々に清書する、
という、手書きで文章を書いていく方法と、
なんら代わりなくなっていくのだね。
紙を何枚かぐしゃぐしゃにするか、
電気を使ってモニタに現れるデータを変更していくかの違いで。
あとは、崩し字が速いか、タイピングが速いか、
でしかないというわけだ。
僕は今のところ崩し字が速いし(考えながら書いて、
500字/10分ぐらいのペースで一二時間は保てる)、
紙の上の一覧性で思考を整理できることや、
持ち運べて充電もいらず枕元でも眺められ、
数枚の紙を持ち歩くだけでいいところから、
アナログのほうがまさっていると考えている。
(ここからデジタルに、清書するかどうかという手間だけが、
劣っているところ。
しかしデジタル化なんて、バイトにやらせりゃいいのさ。
今はおれがやるけど)
結局、アナログだろうがデジタルだろうが、
「思考だだもれではなくて、
文章として成立するものを書くことが出来る技能」
のほうが大事だってことだよね。
車が運転できるかどうかより、
どこへ行くか計画する技能のほうが大事なのと、
同じじゃないかと思う。
カタナ式は、
そのなかでも速くて便利な車に、
なれている気がします。
2017年05月04日
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