面白いシチュエーションを思いついたら、
まず落ちを考えよう。
どうやってか展開して、
どうにかして落ちへたどり着いたと仮定して、
それはどうやって終わるのか、
決着がついて完結するのか、
考えよう。
考えるというよりも、「決める」ということに近いかも。
それは線であるストーリーを考える、
ほとんど最初のことをしなければならない。
「この話は、どういうテーマなのか」
ということを。
テーマはモチーフと混同しやすい。
これについては過去記事を参照してくれたまえ。
で、
まずは、面白いシチュエーションと結末のペアこそが、
「結局この話は何を言ったことになるのか」
を決めるのだ。
優しい男が報われるのなら、
「世の中は優しい」ということだろうし、
優しい男がひどい目にあって死ぬのなら、
「優しいだけじゃ生きていけない」になるだろう。
全ては結末次第である。
結末で何かを言ったことになるのは、
前提があるからだ。
結末だけ言っても、それは説得ではない。
結論だけ言う議論と同じで、
ただ結論を叫んでいるバカと同じだ。
そこに至る筋道こそが、
その結論が妥当かどうかを決めるのである。
ところで、テーマと無縁の、
ただの面白い話ではダメなのだろうか。
ダメではない。
しかしそれは言う側の理屈でしかなく、
人は勝手に、「書かれたものから、言わんとしていることや、
意味を読み取る」からである。
それはたとえば、
「三つの点があれば人の顔に見える、
心霊写真の基礎になっているかもしれない、
シミュラクラ現象」が、
人が勝手にそう思ってしまうことと切り離せず、
制御しようと思ってもなかなか出来ない
(どうやったって、やっぱこれ顔っぽく見えるよなあ)
ということに似ている。
人は、ある話を聞くと、
そこに話の意味を見いだそうとする生き物のような気がしている。
あなたがそう意図していなくても、
勝手に人は読み取るのだ。
だとしたら、
きっちりと意味をなしていなければ、
それはジャンクの話としてしか、存在しないのである。
世の中に広まって行く話は、
きっちりと意味をなす、
構造的にしっかりした話だけである。
どうでもいい話や、話として出来ていないものは、
話としての意味がないからだ。
(ひとつだけ例外があり、それは怪談である。
怪談は、意味の破綻を楽しむジャンルである。
意味が通りそうで通らないことを楽しむのだ。
シュールレアリズムはこの逆で、
常識で見れば意味が通らなそうで、
その常識を別の常識にシフトすれば意味が通る、
ものを言う)
ということで、
面白いシチュエーションを思いつき、
結末を決めたら、
自動的に意味が発生してしまう。
「これは○○という意味の話になるな」
と、なるべく明確に事前に把握出来るものが、
面白い話の候補になるわけだ。
だから、
落ちを考えるとき、
大抵複数を考える。
落とし穴に落ちた、というシチュエーションから、
複数の落ちを考える例を先に示した。
このとき、ベトナムのジャングルの話が書けそうだ、
という確信は、
その落ちが「一人で順番にいけば助かるのに、
みんなが殺到したため一人も助からない」
という「蜘蛛の糸」と同じ意味の話になるぞ、
と予測できたからである。
もっとも、
落とし穴というシチュエーションから、
この落ちがベストだと言おうとしているわけではない。
点から線を生むには、無限の方向性がある。
しかし、落ちになり、意味が通る話は、
そんなにはない、ということ。
しかも、それらの間に法則性はなく、
こうすればこういう意味になる、という予測は出来ないということ。
だから、
色々最初に発想して、
沢山結末のパターンを出してみて、
一番面白い話になりそうなものを選択するのが、
実用上ベストのやり方だ、ということ。
まあ、書いてるうちにさらに面白い落ちを思いつくことも多くて、
リライトの時大変な目に遭うのは、
日常茶飯事ではあるけれど。
面白いシチュエーションが、こう終わる。
これだけで、その話には意味が発生する。
名作のそのペアを書き出して、テーマとの関連性を考えてみよう。
テーマは直接言うのではなく間接的に言うのだ、
という経験則は、
「テーマとは、
最初の面白いシチュエーションがどう決着がついたかで語れる」
ということを裏から言っているに過ぎない。
そのテーマは平凡か、非凡か。
平凡でも面白いか。
非凡だけど分かりにくいか。
価値のあるテーマか。
この世の中に語っても意味のないテーマか。
飽きたか。新鮮か。
そういうことは、たったこの2ステップ目で決まっている。
2017年05月04日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック