台詞について、深く考えたことがあるでしょうか。
なぜ台詞があるのか。
映画表現に限らず、リアルワールドで考えてください。
人はなぜ声を出すのか。
あるいは逆に、声を出さないときはどういうときか。
声を出すのは、意思を伝えるときです。
意思を伝えるのは、無言でも可能ですよね。
じゃ、意思を伝えるのに、
無言のときと言うときの違いは?
言わなきゃわからないほど複雑なときが、ことばを使うとき。
複雑でなく簡単に示せるような内容のときは、
わざわざ言わない。
たとえば、パピコを割って半分あげるときに、
仲が良ければ目の前に出すだけです。
「ん」ぐらいは言うかもしれない。
食堂のおばちゃんが醤油を持ってくるときも、無言でしょう。
「半分たべなよ」
「醤油もってきたよ」
とは言わない。
にも関わらず、
へたくそなシナリオライターは、
なぜ台詞で言わせてしまうのでしょうか。
意思を伝える方法は、無言という身体言語にもたくさんあることを、
机の上で、忘れているのでしょうか。
いや、現実の場面で遭遇すれば、
自然に無言のコミュニケーションを取るに違いありません。
しかしシナリオの中ではそれができない。
なぜか。
無言の表現というものが、
表現の引き出しに入っていないからではないでしょうか。
「これは無言でも表現できる」と判断するには、
「無言の表現」を、いろいろ知ってないとできません。
逆に言えば、
いろいろ知ってる人は、
「これは無言で表現すべきか」
「あるいは、台詞でないと表現できないことか」
と、毎度毎度二者択一しながら、
起こっている出来事を、
具体的表現に落としていくことをし続けているわけです。
そういうことをしなくてはならない、
と知らない無知だけが、
ただただ、
柱を書き、ト書きを書き、台詞を書き、
という十年一日をやり続けているのでしょう。
それは、表現でもなんでもない。
「だれも見たことのない、まったく新しい体験」ではない。
シナリオの形式を書くことが、
シナリオを書くことではありません。
シナリオは、
「まったく新しい物語的体験を、シナリオ形式で書いたもの」
にすぎません。
シナリオが完成形ではなく、媒介だ、というのはそういう意味です。
我々は、「シナリオという形式の何か」を書くのではなく、
「まったく新しい物語体験」を創作するのです。
ということは、
その表現が煮詰めていないのは、
創作として全くダメです。
ここは台詞を使った方が効果的だろうか、
ここは台詞を使わない方が効果的だろうか、
と、考えていないからです。
さて、ここまで書いておいて、
「どぶ川跳び」を、
サイレントムービーに書き直してみます。
一応元原稿のシーンを忠実に再現したので、
脚本上の尺は4分少しありますが、
実際のところは3分なくても成立する話です。
もと原稿は11分でした。
そんなにいる?
どぶ川跳び改silent.pdf
同じストーリーを表現するのに、
やり方は幾通りもありえます。
それがクリエイティブな世界であります。
だとしても、
人に何かを伝えるには原則があります。
それは、
「無駄なく伝えること」です。
この話が伝えようとしていることは、
台詞を使わずとも表現できます。
言葉でとらえる必要のない出来事だからです。
僕はログラインを、
「少年が勇気を見せて、新しい友達を得る」としました。
要するに通過儀礼の話なわけです。
新しい社会になじむには、そこのルールにのっとる必要がある。
それがある種の度胸試しになっている。
その枠に、ことばは不要だと思います。
見りゃわかるんだから。
ということで、見りゃわかる、というシナリオにしてみました。
ちなみに元のログラインは、
「陽太が引っ越し先で、遊び仲間として認められる話」
となっています。これは変なログラインです。
主人公陽太が、何もしないことになるからです。
「何をして」認められるかが、お話の中核というものです。
「ただ何もせず認められる」のなら、
おなじみメアリースーの出番ですが、
この話はそうではない。
勇気を見せ、実行し、成功する話です。
ということは、それを中心にすえるべきでしょう。
しかし、
3分そこらとはいえ、たいした話ではないと僕は考えます。
なぜなら、テーマがないからです。
「勇気をみせれば、認めてくれる通過儀礼のようなものがある」
という、普遍的な事実があるだけで、
「そらそうやろ」と思っておしまいだからです。
新しいひねりも何もない。
これが「勇気を見せるふりだけしておけば、
社会というのはバカだからすぐ騙されるのである」
としたほうが今日的のような気がします。
さらに裏返して、
「すぐ騙されるバカな世間ではあるが、
ちゃんと見てくれている人はいる」
というテーマにするという手もあるでしょう。
まあ、それは書く前に設計することではあり、
このテーマを選んだ時点で、
おのずとその射程距離は決まってしまったようなものです。
その中で最大に効果を出すには、
しゃれたサイレント演出にして、
子供の芝居を引き出して、
しゃれた音楽をかぶせるくらいしか、
逃げ方がないということです。
ぶっちゃけ11分もいらず、実質4分で示せる話です。
しかも4分つきあってまで、
「ほほう」とうなるテーマでもなんでもない。
子供が可愛かったなあ、ぐらいしかあとに残るものはないでしょう。
そこまで手術することは、今回はやめておきます。
そもそもそこまで深く考えられた形跡がないので、
ここからは添削というより、
僕のオリジナルになってしまいそうだから。
それは、どうしても台詞でなければならないのか。
普通、それは声に出して、わざわざ言うか。
わざわざ言わないときは、どんな時か。
言わない事が、表見として面白いか。言う事が、表現として面白いか。
すべての台詞で、毎回このような問いがなされるべきです。
そのうえで書かれた台詞だけが、
表現としての台詞です。
映画では、いくつの台詞があるのでしょう。
そのすべて、です。
そうなってない映画を、ぬるい駄作というのです。
2017年05月06日
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サイレントでも話が表現出来るというのは
大変勉強になりました。
表現にもっと気配り出来るよう心掛けます
前回の反省からモチーフを解りやすくを
念頭に作ったのですが
テーマや話運びが安易になりすぎてまた反省です
もっと精進したいです。がんばります!
というものでもないのが難しいところですね。
人間とおなじだもの。
他の人の原稿を自分ならどう思うか、
自分ならどう直すかを考えるのもものすごく勉強になるので、
このあともお読みください。