さらに台詞に関する議論を続けます。
台詞がないと、どのような効果が得られるでしょう。
答えは、「想像が生まれる」だと思います。
元の原稿と、一切サイレントバージョンにしたものの、
なにが一番差があるかというと、
「何が今おこっているか、想像したくなる」ようにできているかどうか、
という部分だと考えます。
台詞の威力のひとつは、
「確定させる力」だと思います。
「わたしはあなたが好き」と言えば、
それは確定したことになりますからね。
(確定されたことを逆に利用することを、
嘘といいます)
逆に台詞がないということは、
確定していないということでもあります。
だから、見る側は想像を働かせるのです。
「一体いま何が起こっているのだろう」と。
それが、興味が持続しなければ、
人は飽きてどこかへ行ってしまいます。
だから、
確定して人を引き続けることと、
確定させずに次へ引っ張ることは、二律背反であり、
腕の試されるところです。
この話の焦点はなんでしょう。
「この子に友達ができるかどうか」でしょうね。
それはそんなに興味が持続することかなあ。
僕は3分ぐらいと見積もりました。
だから11分は明らかに、この焦点に対して長すぎます。
サイレントによって、
台詞で確定していないぶん、
人は様々な想像をすることが可能です。
(それは、今起こっている焦点に、
興味が持続しつづけているときだけです)
「引っ込み思案のこの子に、友達はできるだろうか」
「長靴はズルじゃないかなあ」
「ほうきを持ってきたのは何のためだ? 棒高跳びにするつもりか!」
などなどです。
これが、今そこで起こっている以上に、
実体を大きくみせることが可能です。
その正体は、「見ている人の中の想像力」です。
子供が苦労している絵に、
人々は「自分の想像を投影する」のです。
「俺もこうだったなあ」
「こういう子いたなあ。僕らをこう思ってたのかな」
「友達になればいいのに。でも仲間にすぐ入れるのは幻想だよなあ」
などなどです。
これが、感情移入という状態です。
これがうまくいくためには、
隙間が必要なのです。
不二子ちゃんは私生活が謎だからこそ、
魅力的なのと同じ。
我々が勝手に想像する部分こそ、隙間の部分です。
繰り返しますが、
ただ隙間をつくったって、人は想像してくれません。
そうなるのは、興味があるときだけです。
だから物語の冒頭は、興味を引くようにつくるのです。
(この物語の冒頭は、そういう意味で弱い気がします。
ロウ石がなんの伏線にもなっていないし)
「台詞で確定しない」事で、
サイレントバージョンは、興味をひくことに少し成功しています。
ここで何が起こっているのだろうと、
足を止めて見るに値するだろうかと、
値踏みをするレベルには足を止めるでしょう。
それは見ている側が、想像することで、
この世界に参加しはじめるからです。
ところで、
サイレントである意味は、このように、
想像させるため、というある種のテクニカルなものでした。
では、内容と関係あるようにするにはどうすればよいでしょう。
たとえば、
ラストをこう書き換えることが可能です。
〇公園
泥まみれの陽太を、子供たちが水道で洗
ってやっている。
子供A「俺、シゲ」
子供B「俺、トオル」
子供C「タケシ」
陽太 「……俺、陽太」
子供A「陽太」
子供B「陽太」
子供C「陽太」
陽太 「シゲ、トオル、タケシ」
子供ABC「陽太」
子供たち、はじめて声を出して笑う。
今までサイレントという声のない世界に、
はじめて声(主体)がおとずれた、という古典的な演出です。
「アーティスト」でも、
効果的にこういうベタ演出が使われてましたね。
台詞のありなしで、
こういう表現が可能になってくるわけです。
(それでも、3分程度の尺の規模のお話、
という枠組みは変わりませんが)
2017年05月06日
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