2017年05月06日

脚本添削スペシャル2017:4 台詞とは何か2

さらに台詞に関する議論を続けます。
台詞がないと、どのような効果が得られるでしょう。

答えは、「想像が生まれる」だと思います。




元の原稿と、一切サイレントバージョンにしたものの、
なにが一番差があるかというと、
「何が今おこっているか、想像したくなる」ようにできているかどうか、
という部分だと考えます。

台詞の威力のひとつは、
「確定させる力」だと思います。
「わたしはあなたが好き」と言えば、
それは確定したことになりますからね。
(確定されたことを逆に利用することを、
嘘といいます)


逆に台詞がないということは、
確定していないということでもあります。
だから、見る側は想像を働かせるのです。
「一体いま何が起こっているのだろう」と。

それが、興味が持続しなければ、
人は飽きてどこかへ行ってしまいます。
だから、
確定して人を引き続けることと、
確定させずに次へ引っ張ることは、二律背反であり、
腕の試されるところです。

この話の焦点はなんでしょう。
「この子に友達ができるかどうか」でしょうね。
それはそんなに興味が持続することかなあ。
僕は3分ぐらいと見積もりました。
だから11分は明らかに、この焦点に対して長すぎます。

サイレントによって、
台詞で確定していないぶん、
人は様々な想像をすることが可能です。
(それは、今起こっている焦点に、
興味が持続しつづけているときだけです)

「引っ込み思案のこの子に、友達はできるだろうか」
「長靴はズルじゃないかなあ」
「ほうきを持ってきたのは何のためだ? 棒高跳びにするつもりか!」
などなどです。

これが、今そこで起こっている以上に、
実体を大きくみせることが可能です。
その正体は、「見ている人の中の想像力」です。
子供が苦労している絵に、
人々は「自分の想像を投影する」のです。
「俺もこうだったなあ」
「こういう子いたなあ。僕らをこう思ってたのかな」
「友達になればいいのに。でも仲間にすぐ入れるのは幻想だよなあ」
などなどです。

これが、感情移入という状態です。

これがうまくいくためには、
隙間が必要なのです。
不二子ちゃんは私生活が謎だからこそ、
魅力的なのと同じ。
我々が勝手に想像する部分こそ、隙間の部分です。

繰り返しますが、
ただ隙間をつくったって、人は想像してくれません。
そうなるのは、興味があるときだけです。
だから物語の冒頭は、興味を引くようにつくるのです。
(この物語の冒頭は、そういう意味で弱い気がします。
ロウ石がなんの伏線にもなっていないし)


「台詞で確定しない」事で、
サイレントバージョンは、興味をひくことに少し成功しています。
ここで何が起こっているのだろうと、
足を止めて見るに値するだろうかと、
値踏みをするレベルには足を止めるでしょう。
それは見ている側が、想像することで、
この世界に参加しはじめるからです。


ところで、
サイレントである意味は、このように、
想像させるため、というある種のテクニカルなものでした。
では、内容と関係あるようにするにはどうすればよいでしょう。

たとえば、
ラストをこう書き換えることが可能です。

〇公園

  泥まみれの陽太を、子供たちが水道で洗
  ってやっている。
子供A「俺、シゲ」
子供B「俺、トオル」
子供C「タケシ」
陽太 「……俺、陽太」
子供A「陽太」
子供B「陽太」
子供C「陽太」
陽太 「シゲ、トオル、タケシ」
子供ABC「陽太」
   子供たち、はじめて声を出して笑う。


今までサイレントという声のない世界に、
はじめて声(主体)がおとずれた、という古典的な演出です。
「アーティスト」でも、
効果的にこういうベタ演出が使われてましたね。



台詞のありなしで、
こういう表現が可能になってくるわけです。
(それでも、3分程度の尺の規模のお話、
という枠組みは変わりませんが)
posted by おおおかとしひこ at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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