2017年05月10日

脚本添削スペシャル2017:7 開幕の技術と構成

そもそも、開幕の技術は何のために必要なものなのか。
構成のためであります。


構成というと難しい理論がたくさんありますが、
僕はたいしたことのないことだと考えています。

全体がこういう話だとすると、
大体半分はどのへんか、
大体1/4はどのへんか、3/4はどのへんか、
ということに過ぎないと考えます。


たとえば「フェイス・トゥ・フェイス」というストーリーで、
半分はどのへんであるべきでしょうか。

「二人の心はちょっと通じたけど、
まだぐっと来てない」ぐらいだと思うんです。

ということは、
前半戦は、「二人の心がちょっと通じる」
後半戦は、「ぐっと来る」
をやればいい、ということが分かります。

仮に15ページだとすると、
7.5ページでそれぞれをやればいい、
ということです。

じゃあ、
「二人の心がちょっと通じる」7分半の、
真ん中はどのへんであるべきでしょうか。
二人が出会う、と仮にしましょう。

じゃあその前半戦が二人の背景、
後半戦が、二人が出会ってからちょっと通じる、
ということをやればいいということになります。

ということで、
二人の背景を描きつつ二人が出会うまでを、
4分弱で書けばよく、
出会った二人が心を通じるエピソードを、
残り4分弱で書けばいいことになります。
(それは元原稿から考えるに、
「顔を化粧道具で描くが、うまくいかない」
になるでしょう)


後半戦は?

心がさらに通じるエピソードを4分弱で描き、
4分弱で、クライマックスでしょう。
クライマックスは、
絵的なことを考えるのではなく、
「マリーが男は顔じゃないと気づく決定的なこと」
「顔なし騎士が呪いが解ける決定的なこと」を描くべきです。

それが出来てはじめて、
クライマックスに相応しい、
絵的な面白さを考えればいいだけのこと。
(冒頭と同じこと。あるいは冒頭やクライマックスだけではなく、
実は全ての絵に言えることだけど)

その二つのことが同時に解決するのなら、
赤騎士との決闘である必要性はないかもです。
(たとえば、絵を描く対決になるかも知れない)

絵先行で考えてしまうと、
赤騎士との決闘や、川に落ちるとか、
冒頭の村祭りや、騎士同士の決闘などが頭にちらついて、
捨てられなくなってしまうんです。
それ以上に魅力的な絵を考えられない限り、
どうしてもその絵に戻ってしまう。

話を先行で考えないと、
(この枚数で○○を書く、その為にはどういう絵の場面が面白いだろう?)
自由に話を組み直したり、
ページ配分を調整したり出来ないんですよね。



この構成法、すなわちページ配分を決める方法は、
「全体の話がこうだとすると、
半分までにはどうなってなければならないか」
を全体、前半ブロックと後半ブロック、
つまり、1/2、1/4に適用した例です。

さらに1/8にも適用できます。
最初の1/4のブロック4分弱では、
「二人の背景と、二人が出会う」をやればよいのだから、
最初の2分で、
マリーの背景と顔なし騎士の背景、
次の2分で、
二人が出会うエピソードを書けばよろしい。

これは逆順でも構わない。
絵的にインパクトありそうな、
狼に襲われてるのを助けられたら、
顔のない騎士だった、というところから始めて、
二人の背景をお互いに語り出す、
という前記事の構成は、こちらを採用しています。

マリーの背景から始めて二人が出会うまでを2分、
顔なし騎士の背景を2分、
という配分もなくはないですが、しんどそう。
マリーの背景1分、出会い2分、顔なし騎士の背景1分、
という配分ならなんとかなりそう。
とすると、村祭りとか赤騎士とか、
書いてる暇はなさそうなことが、
自動的にわかります。
勿論友人も不要でしょう。父母もいるかしら。

これが、「構成を考えるという行為」です。

元原稿は、構成が出来ていない、
すなわち、やろうとしているストーリーは、
矛盾なく起こりから閉じまで出来ていたとしても、
各パーツの大小が間違っているのです。

人間の内臓にたとえると、
一通り揃っている、
たとえば心臓がないとか腸がないとかではないけれど、
心臓が巨大すぎるとか、
胃袋が小さすぎるとか、
肝臓がみっつあるとか、
大小のバランスがおかしなことになっているのです。
だから、
それぞれのパーツが十分に機能しない。

あ、「フェイス・トゥ・フェイス」では、
「二人の心が深く通じ会う」という内臓が不足しているような気がしました。
赤騎士との決闘の途中でやろうとしていましたが、
顔に絵を描く→なにかある→赤騎士との決闘
ぐらいないと、
「でもその顔好きよ」とは言えないでしょうね。

作者が男の場合、
こういう風にヒロインにいってほしい、
という願望があってつい言わせてしまうという、
深層心理があります。
願望なので、説得力が十分ない所で、
不自然に言ってしまうのです。
これに気づくためには、
男女を逆転して考える方法論が有効です。

決闘が女に出来るかどうかという物理的なことを置いといて、
そういう世界だと勝手に想像して、
兜を脱いだらやや不細工な「顔なし女騎士」だとして、
理想の美女を求めていいなづけを捨てて旅に出た男が、
「その顔俺は好きだな」
と言って、我々は納得するでしょうか。

だって二人のエピソードは、
狼に襲われたのを助けられ、
鍵を外し、
絵を描いただけですよ。
それだけで、理想の美女の顔なんてないことまでは分かったとしても、
「その顔俺は好きだな」
と言えるでしょうか。
もうひとつ、
一段階深いエピソードが必要だと思うのです。
たとえばやや不細工な女だったとしてもがっかりしないだけの、
その女のチャーミングな部分とか、
その女を許せるエピソードとか。

逆に、そのやや不細工な女騎士は、
美男子でもないマリ男を、何故好きになるのか。

そういうエピソードが、
後半戦の前半戦、4分弱の部分で必要だと思います。

こういう風に、男女逆で考えれば、
恋愛というものを願望で描くことから解放出来ます。


ことは恋愛におさまらず、
たとえば正義と悪の話を書くときでも、
悪が勝つという前提の世界に置き換えて、
主人公と敵を入れ換えたら、
主人公が都合よすぎで勝っている、
などをチェックすることが可能です。

互いの価値観と立場を逆転すると、
このようなことが見えやすいのです。

男の場合、
男と男を描くときは、
相手とこちらを入れ換えて考えることは、
日常でもやっていることなので普通に出来るのですが、
こと男女のことになると、
異星人すぎて客観性を失いがちです。
だから男女を逆転して考える方法論は、
ご都合主義に気づく有効な方法論です。

応用編として、
男の作家は「女同士の会話」が苦手だと思いますが、
これも「男同士の会話」に一回置き換えればいいのです。
会話しなくて通じる部分は省略して、
最低限必要な会話だけをすればよろしい。
女同士だからと言って、
カワイイ会話をしなければならない理由はない。
最低限必要なことだけやって、
ストーリーを進めればいいと思います。



二時間の映画でも、
この構成法は、僕は同じだと考えています。
まず二つに割り、
前半戦60分まででどうなっているか。
後半戦60分はどうなるか。
さらにそれを、30分の前半と後半に。
15分の前半と後半に。
ここまで来れば、この添削スペシャルと、
同じ規模になります。
7分半に割り、4分弱に割り、2分弱に割っても、
勿論構いません。


僕は構成を、時々楽譜にたとえます。
構成は一般にストラクチャーという言葉が当てられていますが、
僕はタイムスケジュールと考えたほうが、
脚本が書きやすいと考えます。

作中のタイムスケジュール、
たとえば夕方に捕まって夜脱出させ、
次の日の昼食でサンドイッチを食べて顔を描き…
というタイムスケジュールを組むのは、
まず最初にやることでしょう。

しかしそれとは別に、
「このストーリーを語るための、
語り手のタイムスケジュール」が、
構成だと僕は考えています。

何に何ページかけるのか、ということを考えると、
足し算引き算の世界になって、
あれを納めてこれを引き伸ばして、
なんてことを考えなきゃいけなくなるので、
全体のことが考えにくくなります。

なので、
ざっくり全体を見渡したときに、
半分までの前半戦までには何が起こってなきゃいけないのか、
後半戦にそれがどうなるのか、
ということを見て、
その前半戦と後半戦には…
と見ていく方法は、ストーリーを外から眺める、
有効なやり方です。


実はこの「半分法」(今とりあえず命名)は、
最近開発した方法で、
まだ記事には書いてなかったかもです。

僕は今とても長いものを書こうとしていて、
半分までにはどうなってるのか、
残り半分どうなるのか、
という全体のバランスを整えると、
これを○ページで書けばよい、
という部分の適切な大きさが見えやすいことに気づいたので。


たとえば原作つき映画を2時間の脚本に構成するときにも、
この半分法は有効かもしれません。
映画全体で何をやるのか、
その半分はどこか、とやっていくと、
エピソードの取捨選択や、合成や分解が楽になるでしょうね。

逆に短編を長編化するときにも有効でしょう。
全体で何をするのか、
その半分はどこか。

(伝統的に三幕構成法は、三つのパーツ、
1/4、1/2、1/4で考えます。
しかし真ん中の部分を考えるのがとても難しい。
その弱点を克服したメソッドのような気がします)



「フェイス・トゥ・フェイス」が、
全体にはどういうストーリーで、
半分にはどうなのか、
という捉え方が違うのなら、
構成、すなわちページ配分は変わってくる可能性はあります。
それを決めるのが、ログラインなんですね。
この話はざっくりいうとこういう話だ、
と作者自身が規定するわけですから。

じゃあその規定の半分はどうなのか、
というところから考えると、
やりやすいはずです。


ストーリーというのは複雑で、
全体像を捉えて大掴みに扱うのが難しいのです。
ログラインは、それをやるための道具だと思うといいと思います。

だから、ログラインは何回も書いてもいいんです。
自分が思うこの話の本質を、
何通りもの表現で書いてみて、
一番しっくり来るものを考えればいい。
その数行のために何日も費やすかもしれません。
しっくり来ないと、
それを分解してもしっくり来ないでしょう。
しっくり来たら、全てを始められます。


ログラインは、書く前に書くの?
いえ。
書く前に書き、
書く途中にも書き、
書き終えたあとにも書いたほうがよいと思います。
その時々で、自分のストーリーへの理解が変わるからです。

書き終えたときにしか、
本当に自分がやりたかったことが分からないことが、
とても多いです。
だからと言って書く前に書かないのは、
自分がこれから書こうとしていることへのガイドが無さすぎて不安でしょう。
書く途中にもログラインを書くのは、
途中で脱線しないための柵の役目を果たします。




で。

前半戦の前半戦の前半戦。
何ページで何をやるのか。
それが開幕の部分です。

「何かを思いついて書き始める」のが、
いかに何も考えていないか、
ということがお分かりかと思います。
初心者は最初から書き始めて勢いで最後まで書くか、
勢いが途中でなくなって挫折するかの、
二者択一しかありません。
多少とも書ける人は、こういうやり方ではダメなことは知っていますが、
その先の方法論を知らず、
経験則だけでなんとかしようとします。
この記事は、そんな人の為に書いています。

オープニングを最初に書くのは間違い。
オープニングは、
極端に言えば最後に書くのです。
posted by おおおかとしひこ at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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