各キャラクターの中では、必ず首尾一貫がある。
たとえ悪でもだ。
デスノートの月は、殺人を正義だという首尾一貫で納得していた。
各登場人物は、
どうやって自分を納得させているのか、
ちゃんと考えているだろうか。
そもそもキャラクターの中にぶれがあるのは論外だ。
たとえば人によって対応が違う人は、
ぶれているのなら論外だが、
「狙ってそうしている」のなら首尾一貫しているわけだ。
一人の中の首尾一貫がきちんと保たれているとき、
各登場人物同士の首尾一貫がぶつかるときが来る。
コンフリクトである。
コンフリクトは、必ず人と人の間に起こり、
それは外見上は立場や目的の差異によって起こるのだが、
ほんとうは人と人の考え方の間に起こるのだ。
つまりコンフリクトの正体は、
考え方同士の軋轢なのである。
何を正義だと考えているのか。
何が誰のためになると考えているのか。
私は悪くないと、どういう理屈で補完しているのか。
その考え方同士のずれや軋轢を扱えないと、
コンフリクトというものは描けない。
たとえ後世に悪と言われた戦争ですら、
「お国のために礎となる」
ということで当時はみんな納得していた。
「国は広がるべきであり、国は富むべきであり、
敵は侵略し、仲間は増やすべきである」
とも考えていたわけだ。
実際に出征する人は、
それはお題目に過ぎず、
「徴兵には逆らえないから」とか、
「自分が犠牲になることで、一族皆党に恩賞があるから、
たとえ自分が死んでも皆が幸せになる」
と、思っていただろう。
人それぞれによって考えは違う。
自分の行動や判断や立場に、
どのような納得をしているか、が違う。
この差異の部分に、ドラマが生まれる。
政治家の息子が出征するとき、
政治家の父の心の中では、確実に大きな葛藤が生じる。
当人の納得と、父としての納得は齟齬がある。
だから行動ひとつの解釈も違ってくる。
ここに、揉めの種があるわけだ。
たとえば分不相応な立場の職にいる人だって、
「自分の実力でここまで来た」と信じる人もいる。
自分を過小評価して、偶然ですよと言う人もいる。
あるいは、表向きは殊勝な態度をとって点数を稼ぎ、
裏で別のことを考えている人もいる。
彼らが同じ立場を巡るとき、
必ず考え方の齟齬があり、ドラマの種になるだろう。
気をつけるべきことは、
これらは、それぞれの登場人物の中で、
常に首尾一貫していることである。
なぜなら、人は簡単には自分の考えを変えないからである。
つまり物語のエンジンとは、
人が自分の納得を変えようとしないことだ、と言える。
納得というのは、
その人がそれまで生きてきた人生が出る。
自分は自分の人生を、こう納得している、とその人は、
自覚的にか無自覚的にか考えている。
だから考え方を変えるというのは、
自分のこれまでの人生の否定だ。
だから抵抗する。
改宗なんて滅多にないのだ。
だから人はもめる。
逆に、物語のためには、
なるべく違う考え方の人物が同じ場所にいるといいということになる。
考え方が違うとき、
すぐにその人のいる場所から離れられないような事情があると、
コンフリクトが起こりやすいわけだ。
同じ集団の中
(家族、村、会社、軍団、バンド、たまたま居合わせた密室もの)
でコンフリクトが描かれるのは、
こういうわけなのだ。
ところで、考え方や納得が、
変わるときはどういうときだろう。
種から生まれたドラマは、展開しなければならない。
つづく。
2017年05月16日
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