佳境に入ってきました。
たびたびここで書いていますが、
テーマとは、作者の言いたいことではありません。
テーマとは、その話が存在する意味です。
テーマは、作者から切り離されます。
テーマは、話の中に単独で存在します。
なんなら、作者が考えていることと別のテーマの話を書くことも可能です。
(多くのCMは、そのように書かれています)
だから、
テーマが崇高だとしても、
作者も崇高だとは限りません。
テーマが下品でも、
作者が下品とは限りません。
作者が、テーマと作者を分離できれば、の話ですが。
ストーリーを書き始めた人は、
うっかり融合したまま、
テーマを書いてしまいます。
だから、テーマに関して指摘されると、
自分が否定されたような気になります。
テーマと作者が分離していないことによる弊害です。
僕は応募者の人たちがどのような内面であるかには、
なんの興味もありません。
どういう人であれ、
作品のテーマがおもしろいか、
ストーリーがきちんとそのテーマに落ちているか、
そのテーマは社会的時代的意味はあるか、
が興味の対象です。
さて。
それぞれの作品のテーマは、
一体どのようなものであったでしょうか。
「どぶ川跳び」
モチーフは、通過儀礼です。
テーマは?
ないんですよ。
-Aだったものが、+Aになるわけではないので。
「勇気を示せば周囲は認めてくれる」
ということを、わざわざ言おうとしているとも思えないし、
(だとしたら別のモチーフでもいいはず)
そしてさらに言えば、
仮にこれがテーマだったとして、
それが今日的に響くものであるような気がしない、
というところが最大のネックです。
人によっては、主人公が北朝鮮で子供らの代表はアメリカである、
なんて世相を読み取ろうと無理矢理する人もいそうですが、
僕はそこに寓意を読み取るほどではないと思います。
何故なら、主人公にとっての逆境と、
それを乗り越える方法が、
「ただとべばいい」だけだからです。
「恐怖を克服すれば幸福になれる」
としか言っていない。
それって、言う価値のあること?
「フェイス・トゥ・フェイス」
テーマは明確です。
「人間顔じゃない」。
ただ否定型なんです。
「Aでなく、Bである」と断言してほしかったところ。
「人間顔じゃなくて、○○なんだ」
と言うための、○○が欲しいところです。
しかしそれはなんとも難しいことです。
完全なる正解があるわけではないので。
中身、なんて良く言いますが、
その中身はどうであれば、顔を否定できるのか、
ということが、このタイプのテーマに不可欠です。
二時間もの長さを付き合えば、
なんとなく情が湧いてくるもので、
顔じゃなくて、積み重ねた関係なんだ、
なんてことまで行けるのですが、
ここは15分。
積み重ねることはなかなか出来ない。
ということは、
何か短編なりのキレが必要です。
「人間顔じゃなくて、歌のうまさ」とやってもいい。
「人間顔じゃなくて、嘘をつかないこと」でもいい。
「人間顔じゃなくて、金」でもいい。
どのようにも落とせます。
悪役の赤騎士を、テーマの反対のキャラにすればいいからです。
それを倒して顔を取り戻せば、
私の価値は○○であった、と無言で示すのは簡単です。
さて、さらに引いたところから見てみます。
カワイイは作れるとか、カワイイは正義とか、
盛り写真とか、
そういう顔全盛の現代に、
「人間顔じゃなくて○○」という、
○○が、どういう切り込み方が面白いでしょう?
その独特の結論こそ、
この作品の個性になるべきで、
それを持ってきたのかあ、という驚きや納得が、
私たちがストーリーを見る理由です。
僕らは意外なことに驚き、納得したいし、
かつ楽しんだり泣いたり笑ったりしたいのです。
15分だろうが2時間だろうが。
15分は2時間の1/16ではありません。
15分と2時間は対等の、1本ずつです。
もしこの作品の○○が物凄くキレが良く、
かつ納得できるのなら、
「美女と野獣」や「愛しのローズマリー」を越える、
傑作にもなれるのです。
常にその射程で、ものづくりはすべきです。
(成功か失敗かは、出来てみないとわかりませんが)
「俺のスマイル包丁」
これも同様に、
何故回転寿司が高級料亭より素晴らしいのか、
腹に落ちませんでした。
こういう構造であれば、
「主人公は高級料亭の魚こそ至高と思っていたが、
庶民の回転寿司の○○の良さに気付き、 思い直す」
ということを意味します。
しかもタイトルにスマイルがあるのだから、
スマイルがテーマになるはず。
「うちの料亭は接待に使われているだけで、
誰も魚を食べて笑わなかった。
微笑んでいたのは接待が成功した側だ」
というエピソードを入れたら、
「美味しい魚を安く提供して皆たのしむ」
ということに関係できたかも知れません。
ただ昨今、安い魚が不安なので、
安い安全な美味しい魚を庶民的な値段で提供する、
その理由が欲しいところ。
こんなに魚が安いわけがないという不安を払拭するだけの、
我々の知らないなにかを、
この作品で示せれば(取材が必要でしょう)、
「なるほど」と思えると思います。
たとえば、僕は焼肉が好きな関西人ですが、
美味しくて安い焼肉屋をたくさん知っています。
しかし肉の値段は、大体美味しさに比例します。
それを割るのは、訳ありのダメ肉のことが多いですが、
僕はそういう店にはいきません。
僕が行くのは在日の人の店です。
そこはある意味別社会のコネクションがあって、
うまい肉が優先的に卸されているカラクリがあるからです。
勿論、こういうことを大っぴらに作品内で言うのは憚られます。
しかし、それは真実のひとつです。
魚に関して、へえ、と思う何かがあれば、
説得力があったテーマになったでしょう。
「ブレイン・コントロール」
「目覚めようとしても、簡単に別の何かに支配される」
というのは今日的で面白いテーマです。
ただ、どこかで見た感は拭えません。
わりと実際に撮れそうな予算の範囲内だからかな。
この添削スペシャルでは、予算の制限をしていないので、
もっとマトリックスみたいに滅茶苦茶なシーンを作ってもよかったでしょうね。
「ゼイリブ」なんて、宇宙まで行ったしなあ。
「ダークシティ」なんて、滅茶苦茶なビジュアルで面白かった。
「アバロン」「紅い眼鏡」のループ構造落ちは、見飽きた。
面白げなテーマに対して、
ストーリーの面白さがついていっていない気がしました。
「もはやエアコンなしでは生きていけない人が、
無人島でサバイバルをしなければならない」
みたいなモチーフでも、同じテーマを描くことは可能です。
「幸福の埋葬」
前記事で詳しく触れましたが、
メインプロットとサブプロットがねじれています。
何がメインテーマかの軸足を持ち、
それを最も面白くし、
サブプロットとペアでテーマになるように作り替えないと、
これが何かを意味している、という風にはなりません。
ちょっと面白かった、というレベルにはなりますが、
それじゃあ最近のクソドラマレベルで、
キャストが可愛かったとかの、どうでもいい楽しみレベルでしょう。
そのストーリーは、結局なにを意味しているのか。
最終的に、それが社会にどのような影響を与えるのか。
それが、作品の価値です。
その価値を新しく作るべきだし、
かつ、ストーリー自体が面白くあるべきでしょう。
勿論その価値は、王道でも構いません。
手垢がついてて嫌がられさえしなければ。
ということで、
今回の脚本添削スペシャルは、
添削するほど面白いテーマがなかったので、
残念ながらフルリライトはしません。
部分的添削で、
まず技術的なことを磨いてみてください。
最近のこの脚本論では、
わりと「何を書くべきか」なんて抽象論が多いので、
たまにはこういった技術論もやりたいものですね。
なかなか具体がないと出来ないことなので、
そういう意味では、
赤を何故入れたのか、
つまり脚本とはどういう形式でストーリーを表現する媒体なのか、
ということを把握しておくと、
今後の役に立つでしょう。
全部読んだら結構な分量ですが、
今年も濃かったかな。
習作はいつでも書けます。
毎日一本とは言いませんが、
月○本と決めて書くと、
今回の反省が生かせる場面に立ち会えるでしょう。
代表作は次回作。
常に今作を越えるものを、出し続けてください。
では通常運転にもどります。
2017年05月12日
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特に構成の記事において
「物理的な長さと心象的な長さに〜」
これは、ヤマトの例で凄くわかりやすかったので
今後も気を付けていきたいと思います。
毎年丁寧に添削していただき、ありがとうございます。
今後もブログ更新楽しみにしています。
書き始める前と書き終えたあとで、
変わってくるんですよ。
書き始める前の構成計画とは、
大体違ったものが出来上がってることが多く。
この添削講座ではリライト、
つまり書き終えたあとの立場から書いていることにご注意ください。
書き始める前にも勿論イメージしやすい方法論ではありますが。
私はビリーワイルダーとIALダイアモンドのコンビの作品が好きですが、「その作品のテーマは?」と考えるとよく分からなくなってしまいます。
「アパートの鍵貸します」「昼下がりの情事」「お熱いのがお好き」のテーマは何なのでしょう?
「アパートの鍵貸します」やるときはやれ
「昼下がりの情事」(見たけど覚えていない)
「お熱いのがお好き」ノーワンイズパーフェクト
この時代、まだテーマと表現を一致させたものはあまりないですかね。
「サンセット大通り」なら、
「すべてはむなしい」ともとれるし、
「きらめきは人を虜にする」ともとれるし、
「人の業は深い」ともとれると考えます。
そもそも一作品に一テーマと一対一対応があるとも限りません。
数学のような答えあわせは、文学に意味のないことです。