人は、それぞれに自分の中で考え方を整理し、
自分なりの哲学や信念や納得をもっている。
それはそれまでの人生の中で裏打ちされたものであるから、
滅多なことでは変更しない。
転向は、今までの人生を否定することだからである。
ところで、
Aの考え方から見た、Bの考え方のおかしなところ、
Bの考え方から見た、Aの考え方のおかしなところ、
双方をちゃんと見れているだろうか。
これがきちんと出来ていないと、
そもそも人の争い、闘い、軋轢、揉め事なんて書けないのである。
一方的な正義が一方的な悪を論破するのは、
コンフリクトではない。
それはただの一方的な闘いだ。
コンフリクトは、多元的見方のことである。
つまり、AもBも、どちらも正義だ。
自分は間違っていないと考えている。
それは、ABの主観から見て、
という意味である。
考えれば当たり前だ。
それぞれはそれぞれの人生の結論としての考え方や納得の仕方をしていて、
それは間違っていないと考えていて、
違う考え方の人が来れば、
お前は間違っている、
なぜならおれは間違っていないからだ、
と考えるからである。
だから、
Aは自分は正しいと思っていて、Bを間違っていると考えている。
Bも自分は正しいと思っていて、Aを間違っていると考えている。
それぞれ、別の観点や考え方で、である。
さあややこしくなってきた。
表にすると、
2×2の4マスを埋めればいいということになる。
コンフリクトとはすなわち、
話が噛み合わない。
AはAなりの考え方でBを非難し、
BはBなりの考え方でAを非難する。
話はすれ違う。
同じ土俵で非難しあっていないからだ。
さらに話をややこしくするぞ。
それを第三者から見てどう見えているか、
という視点がいる。
Aのほうが客観的に正しいとか、
AB双方の理屈はわかるとか、
Bのほうが同情の余地があるとか、
Aのほうが自分のことしか考えていない狭い視野の人間であるとか、
AB当事者以外の目線がある。
それが観客の目線である。
つまり、あなたは二者のコンフリクトを描くとき、
おなじことを5方向から眺めなければならない。
Aから見たA。
Aから見たB。
Bから見たB。
Bから見たA。
ABを見ている引いた目。
これらの齟齬や軋轢が、
最も面白いように、あなたは組まなければならないのである。
これには、
一種の人生経験が必要かも知れない。
おなじことを5種類の視点から見なければいけないからである。
自分と彼女のケンカのとき、
ここまで冷静になれていたかを振り返れば、
全くそうでないことがわかるだろう。
つまり、主観と客観を切り替えることは、
経験を積まないと難しいということだ。
相手から見た自分、相手が考えている相手自身のこと、
相手と自分を見下ろした目線。
そして自分が考える自分。
これらをはっきり区別して考えられないと、
自分から見た相手がムカつく、ということだけしか見えないだろうね。
複眼的目線、みたいなことを言われるけれど、
僕はもっと難しいと思う。
見た目の違いではなく、
考え方の相違のことだからだ。
目ためで異なることを表現できるわけではなく、
反応や行動で現れるものだからである。
(人は考えを公言してから行動するわけではない。
行動の裏に、言語化出来ていない考えがいる)
二者のコンフリクトでこうなのだ。
三者、四者の揉め事を組み上げるのは、
本当に力量が必要だ。
で、本題。
それらが、
ぶつかり合いや軋轢で、
変成することはあるだろうか?
自分がこれまで納得してきた考え方が、
全く違う考え方に変わることってあるだろうか?
ひとつには、
それで大失敗することだ。
ショックを受け、感情的揺れを体験したあとに、
まるで考え方を変えなければならない、
と冷静さが制御しない限り、
人はなかなか考え方を変えないだろうね。
ひとつには、
物凄く感情的な何かで、
考え方ががらりと変わることだ。
トラウマは、恐怖によって植え付けられ、人の考え方を変える。
驚きや喜びなどもそうかもしれない。
しかし一回の何かで影響を受けるのは滅多になくて、
長期的に影響を受けないと、すぐ考え方は元に戻るだろう。
人は通りすぎたことを忘れがちだ。
上のふたつは組み合わせられる。
失敗と感情的な強い揺さぶりを組み合わせればいい。
これは、Aだけだろうか。
ちがうね。Bもだ。
AとBはぶつかり合うことで、
少しずつ考え方を修正したり変えていったりする。
それはそれぞれの納得の仕方に合わない、
新しい何かに出会ったからである。
ラブストーリーは、
考え方が違う沢山の人のなかから、
自分と同じ考え方の人を探すことではない。
全然違う考え方の二人が、
ぶつかり合って、
少しずつ影響を与えあい、
いい方向に変わることを描くのである。
その考え方の相違の変遷こそが、
展開ということなのだ。
ゴールは二人が全く同じ考え方になることだろうか。
僕は違うと思う。
Aの中でこれまでと違う納得の仕方Cが出来て、
Bの中でこれまでと違う納得の仕方Dが出来て、
新たなコンフリクトの様相になったときだ。
お互いは相変わらず考え方が違うのだが、
お互いを否定したり排斥したりしたいのではなく、
相手を求める時がゴールだと、
僕は考えている。
もちろん、気持ちや考え方のゴールと、
物語上のゴールは違うこともある。
このあと付き合ってくださいと告白したり、
キスして終わるかも知れないし、
結婚式までゴールとならないかも知れない。
勧善懲悪の枠組みでは、
ただ一人考え方を変えないのが悪で、
それが滅びて話が終わるとよく言われる。
逆に言えば、全員が考え方の変わるような、
何かしらの影響を、
悪との闘いの中で得なければならないわけだ。
人は、自分の中での納得をなかなか変えない。
自分は自分をこう思う、という気持ちはとても大きい。
それが揺さぶられない限り、
人はなかなか考え方を変えない。
つまり、アイデンティティーの危機に陥らないと、
自ら変わろうとはしないだろう。
映画は危険が必要だ、とよく言われる。
ハラハラは、目の前の爆弾だけではなく、
内的アイデンティティーの危機もあるわけだ。
内的アイデンティティーの危機と言っても、
具体的にピンと来ないだろう。
僕はこういうときに、いつも「スタンドバイミー」を思い出す。
リバーフェニックスも主人公も、
アイデンティティーの危機にいた。
旅が、彼らの内面を変えたのだ。
こういう風に物語は書きたいものだ。
自分の中の納得。自分から見た相手。
相手の以下同。
他の人の以下同。
それらを外から見る目。
しかも影響を与えあうほどのアイデンティティーの危機。
そしてその変化。
よくよく考えてみると、
とても難しいのである。
(出来るときはなんとなく出来ちゃうけど)
2017年05月17日
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