脚本はアクションとリアクションだと言われる。
芝居もアクションとリアクションだと言われる。
このふたつの文脈における、
アクションとリアクションは意味が異なる。
人が他の人に、
何かを仕掛ける。言う。
これがアクションだ。
人が何かをすれば他に影響する。
これをアクションというわけだ。
それに対して、
何かしらの反応をするのがリアクションだ。
顔を作る、何かを言う。態度を形成する。
バラエティーにおける丸ワイプや、
芸人のリアクション芸などで使われる、
(いわゆるふつうの)リアクションは、
これを指している。
その人がどういうリアクションをするか、みんな待っているわけだ。
リアクションこそが楽しみなのである。
だから、リアクションしやすいようなネタを振るのが、
バラエティーの作り方の基本であるともいえる。
芝居における、
アクションとリアクションは、
こういう意味に近い。
誰かがアクションする。
空気が変わる。
たとえ台本に書かれていなくとも、
その空気が変わったことを察知し、
リアクションを取るべきだ。
棒立ちになっている素人役者を怒るときに、
よく使われる理屈である。
人ならば、空気が変わればリアクションするからである。
さらに深くなると、
その役ならばどういうリアクションをするか、
考え始める。
性格や過去や文脈を考慮し、
自分でない人格ならどうするかを構築することが、芝居であるからだ。
「自分でない人格」を作るために、
たとえばその職業の訓練をしてみたり、
モデルになった場所に行ったり、
あるいはセットに住んでみたり、
などの色々なアプローチがある。
これがマスコミが大好きな「役作り」というやつだ。
だけどこういう役作りなんて、役作りの入り口にしか過ぎないと僕は思っている。
マスコミの理解は浅い。
まあ彼らにとってみれば、中学生でも理解できることしか扱わず、
絵が映えるものしか撮らないから、
その程度の理解でしか芝居を捉えないのだろう。
役作りのこの入り口は、
自分の中に別の人格を作るための、
手がかりを自分に覚えさせる段階に過ぎない。
こういうことを普段している人なら、
どう考えたり反応したり、体が勝手に動くだろうか、
ということを染み込ませるためだけにやるのだ。
役作りの後半は、それを手がかりに、
「じゃあどんなことをしたら、
それが観客に伝わるか」を考え、試すことなのである。
細かすぎて伝わらないモノマネは、やっても意味がないのである。
(細かすぎて伝わらないモノマネ選手権は、
それを楽しむ娯楽である)
その役として生きることは出来る。
次にやることは、
その役として生きることを、分かりやすく伝えなければならない。
それが芝居である。
アクションとリアクションを芝居の文脈で考えるとき、
それをどのような表情や間や身ぶりや立ち方などで、
どう伝えるかを考えることが、芝居を作るということだ。
ところで。
何度も例に引くが、
クレショフのモンタージュ実験の結果から言えることは、
「ただぼーっと突っ立っていたとしても、
前に別のカットを挟めば、
いい感じにリアクションしているように見えるし、
余計な小芝居のない、ナチュラルに見える」
ということだ。
これは、編集という行為によって、
それだけでは意味が薄いものを、文脈を持つものに作り直すことが可能だ、
ということを言っている。(モンタージュ)
つまり、モンタージュ(編集)の前では、
役者の役作りは、はっきりいって無駄なのだ。
役者のみなさん、役作りとか言ってるマスコミのみなさんは、
多分このことを知らない。
ベテランの役者だけが、
「ああ。ここは立っているだけでいいですね」
と判断できるだろう。
ついでに言うと、ベテランの役者は、
「あそこは立っているだけでいいですが、
こっちはそれじゃ伝わらないので、ここでは伝わるような芝居を作ります」
と判断できる。
さらに優秀なベテランの役者は、
レンズを見て、ヨリならば余計な小芝居はしないし、
ヒキならば全身で表現をしてくる。
それは、ある程度モンタージュを知っているということだ。
役作りなんてのは、
そういった作業の、下調べに過ぎない。
「○○さんが消防士の役をするために、
一ヶ月消防士の訓練をしたんです!」なんて報道は、
私たちが長編を書くために半年ぐらいかけて、
なん十冊もの本を読んだり現地に赴いたりする、
ただの下調べと同じことを報道しているだけだ。
そのあとの練る期間、
そのあとに作る期間、
そのあとに仕上げる期間こそ、
本当の創作だというのに、
バカなマスコミは、
下調べの絵が撮れただけでそれを創作と報道している。
きっと創作などしたことがないのだろう。
この創作は他の創作とどう違うのかを、ほんとは報道するべきなのだろうが、
それは創作の経験がないと、他と比較して論ずることなど出来ないだろうからだ。
話がそれた。
ということで、
芝居におけるアクションとリアクションとは、
そのようなことを準備し、考え、チューニングしていくことにある。
だから芝居というのは場面が単位である。
局面といってもいい。
物理的な単位は、出番のシーンだろうね。
出てから引っ込むまでが一単位で、
その間のアクションとリアクションを設計すればいい。
それらが、全体で最終的にどうなるかを、
積み重ねて考えていけばいいわけだ。
脚本におけるアクションとリアクションは、
そういうことではない。
もちろん、役者の芝居の素となる、
その場面のひりひりした空気を描くことは必要だ。
芝居のアクションとリアクションは、
空気という表面的なことで表現する。
脚本のアクションとリアクションは、
その表面の奥にあることを作ること。
つまり、「なぜそれをするのか」。
よく知っている言葉、動機や目的という言葉が出てくるわけだ。
つづく。
2017年05月18日
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