2017年05月18日

アクションとリアクション

脚本はアクションとリアクションだと言われる。
芝居もアクションとリアクションだと言われる。
このふたつの文脈における、
アクションとリアクションは意味が異なる。


人が他の人に、
何かを仕掛ける。言う。
これがアクションだ。
人が何かをすれば他に影響する。
これをアクションというわけだ。

それに対して、
何かしらの反応をするのがリアクションだ。

顔を作る、何かを言う。態度を形成する。
バラエティーにおける丸ワイプや、
芸人のリアクション芸などで使われる、
(いわゆるふつうの)リアクションは、
これを指している。
その人がどういうリアクションをするか、みんな待っているわけだ。
リアクションこそが楽しみなのである。
だから、リアクションしやすいようなネタを振るのが、
バラエティーの作り方の基本であるともいえる。


芝居における、
アクションとリアクションは、
こういう意味に近い。

誰かがアクションする。
空気が変わる。
たとえ台本に書かれていなくとも、
その空気が変わったことを察知し、
リアクションを取るべきだ。

棒立ちになっている素人役者を怒るときに、
よく使われる理屈である。
人ならば、空気が変わればリアクションするからである。


さらに深くなると、
その役ならばどういうリアクションをするか、
考え始める。
性格や過去や文脈を考慮し、
自分でない人格ならどうするかを構築することが、芝居であるからだ。

「自分でない人格」を作るために、
たとえばその職業の訓練をしてみたり、
モデルになった場所に行ったり、
あるいはセットに住んでみたり、
などの色々なアプローチがある。
これがマスコミが大好きな「役作り」というやつだ。

だけどこういう役作りなんて、役作りの入り口にしか過ぎないと僕は思っている。
マスコミの理解は浅い。
まあ彼らにとってみれば、中学生でも理解できることしか扱わず、
絵が映えるものしか撮らないから、
その程度の理解でしか芝居を捉えないのだろう。

役作りのこの入り口は、
自分の中に別の人格を作るための、
手がかりを自分に覚えさせる段階に過ぎない。

こういうことを普段している人なら、
どう考えたり反応したり、体が勝手に動くだろうか、
ということを染み込ませるためだけにやるのだ。

役作りの後半は、それを手がかりに、
「じゃあどんなことをしたら、
それが観客に伝わるか」を考え、試すことなのである。

細かすぎて伝わらないモノマネは、やっても意味がないのである。
(細かすぎて伝わらないモノマネ選手権は、
それを楽しむ娯楽である)

その役として生きることは出来る。
次にやることは、
その役として生きることを、分かりやすく伝えなければならない。
それが芝居である。


アクションとリアクションを芝居の文脈で考えるとき、
それをどのような表情や間や身ぶりや立ち方などで、
どう伝えるかを考えることが、芝居を作るということだ。


ところで。

何度も例に引くが、
クレショフのモンタージュ実験の結果から言えることは、
「ただぼーっと突っ立っていたとしても、
前に別のカットを挟めば、
いい感じにリアクションしているように見えるし、
余計な小芝居のない、ナチュラルに見える」
ということだ。

これは、編集という行為によって、
それだけでは意味が薄いものを、文脈を持つものに作り直すことが可能だ、
ということを言っている。(モンタージュ)

つまり、モンタージュ(編集)の前では、
役者の役作りは、はっきりいって無駄なのだ。


役者のみなさん、役作りとか言ってるマスコミのみなさんは、
多分このことを知らない。

ベテランの役者だけが、
「ああ。ここは立っているだけでいいですね」
と判断できるだろう。


ついでに言うと、ベテランの役者は、
「あそこは立っているだけでいいですが、
こっちはそれじゃ伝わらないので、ここでは伝わるような芝居を作ります」
と判断できる。
さらに優秀なベテランの役者は、
レンズを見て、ヨリならば余計な小芝居はしないし、
ヒキならば全身で表現をしてくる。
それは、ある程度モンタージュを知っているということだ。


役作りなんてのは、
そういった作業の、下調べに過ぎない。

「○○さんが消防士の役をするために、
一ヶ月消防士の訓練をしたんです!」なんて報道は、
私たちが長編を書くために半年ぐらいかけて、
なん十冊もの本を読んだり現地に赴いたりする、
ただの下調べと同じことを報道しているだけだ。

そのあとの練る期間、
そのあとに作る期間、
そのあとに仕上げる期間こそ、
本当の創作だというのに、
バカなマスコミは、
下調べの絵が撮れただけでそれを創作と報道している。
きっと創作などしたことがないのだろう。
この創作は他の創作とどう違うのかを、ほんとは報道するべきなのだろうが、
それは創作の経験がないと、他と比較して論ずることなど出来ないだろうからだ。


話がそれた。


ということで、
芝居におけるアクションとリアクションとは、
そのようなことを準備し、考え、チューニングしていくことにある。

だから芝居というのは場面が単位である。
局面といってもいい。
物理的な単位は、出番のシーンだろうね。
出てから引っ込むまでが一単位で、
その間のアクションとリアクションを設計すればいい。
それらが、全体で最終的にどうなるかを、
積み重ねて考えていけばいいわけだ。



脚本におけるアクションとリアクションは、
そういうことではない。
もちろん、役者の芝居の素となる、
その場面のひりひりした空気を描くことは必要だ。


芝居のアクションとリアクションは、
空気という表面的なことで表現する。
脚本のアクションとリアクションは、
その表面の奥にあることを作ること。
つまり、「なぜそれをするのか」。

よく知っている言葉、動機や目的という言葉が出てくるわけだ。

つづく。
posted by おおおかとしひこ at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック