2017年05月21日

そうか、そういう意図だったのか

人は、意図が先だって、次に行動が伴う。

しかし、我々他人から見れば、
殆どが逆である。
他人は、行動が先立つ。
あとになってその真の意図を知る。

そうか、そういう意図だったのかと知ることこそ、
つまりは三人称文学を見ることの本質だ。


あの発言は、そういう意味だったのか。
あの行動の裏には、そういうことが含まれていたのか。
あの言葉は、そんな二重の意味が込められていたのか。
あの言葉や行動は、誤解だったのか。
最初から宣言してくれれば誤解もなかったのに。
いや、言葉だけじゃ最初からわからなかった、行動で示したからわかったのだ。
秘密が暴露される。
悪事が暴かれる。
隠し事を、知ってしまう。
わざと誤解させる。
そういう認識ならそう思っておけばいい。
騙された。
騙しきってやった。
引っかけを使った。
引っかけを読んで、騙されたふりをした。
自分も気づいてなかった本当の気持ちを、言動から分かってしまう。
私は本当はこんなことを思っていたのか。
言わなくてもわかりあえること。
ミスリードだったのか。


これらのことは、物語の中でしょっちゅうあることだ。
これはすべて、
他人の行動は意図に先行しているからである。

自分の時は、意図があり言動があとからついてくる。
他人は、その逆。
(他人に先に意図を投げて、言動を振ることを無茶ぶりという)


その構造を理解しよう。
そして利用しよう。

こういうことが利用できるようになってくると、
三人称文学は、面白くなる。
誤解や嘘や秘密や相互理解や齟齬が、物語の蜜であるのは、
こういうことではないかと考える。
posted by おおおかとしひこ at 13:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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