人は、意図が先だって、次に行動が伴う。
しかし、我々他人から見れば、
殆どが逆である。
他人は、行動が先立つ。
あとになってその真の意図を知る。
そうか、そういう意図だったのかと知ることこそ、
つまりは三人称文学を見ることの本質だ。
あの発言は、そういう意味だったのか。
あの行動の裏には、そういうことが含まれていたのか。
あの言葉は、そんな二重の意味が込められていたのか。
あの言葉や行動は、誤解だったのか。
最初から宣言してくれれば誤解もなかったのに。
いや、言葉だけじゃ最初からわからなかった、行動で示したからわかったのだ。
秘密が暴露される。
悪事が暴かれる。
隠し事を、知ってしまう。
わざと誤解させる。
そういう認識ならそう思っておけばいい。
騙された。
騙しきってやった。
引っかけを使った。
引っかけを読んで、騙されたふりをした。
自分も気づいてなかった本当の気持ちを、言動から分かってしまう。
私は本当はこんなことを思っていたのか。
言わなくてもわかりあえること。
ミスリードだったのか。
これらのことは、物語の中でしょっちゅうあることだ。
これはすべて、
他人の行動は意図に先行しているからである。
自分の時は、意図があり言動があとからついてくる。
他人は、その逆。
(他人に先に意図を投げて、言動を振ることを無茶ぶりという)
その構造を理解しよう。
そして利用しよう。
こういうことが利用できるようになってくると、
三人称文学は、面白くなる。
誤解や嘘や秘密や相互理解や齟齬が、物語の蜜であるのは、
こういうことではないかと考える。
2017年05月21日
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