前記事のつづき、
もう少し拡大解釈する。
何を先行させて、何をディレイさせるのか、
ということを決めることが、
文章を書くことの本質ではないか?
文章や物語は、一次元である。
一次元ということは、
つまり、順番、後先こそが本質であるということだ。
だから、
何をディレイさせるか、
その為に何から先行させるか、
ということは、
その本質に関わるということである。
前記事の内容に戻れば、
他人の行動が、絵で見て0秒で伝わる。
他人の発言が、音で聞いて数十秒で伝わる。
他人の意図が、そのだいぶあとで伝わる。
噛み砕き、理解したあとにやって来るからだ。
なんなら誤解の物語では、真の意図が分かるのはラスト付近である。
他人の行動は意図に先行し、
意図は行動からディレイして伝わるわけである。
それは、私たちの「理解」というものの本質ではないか。
感覚器で受け取った刺激から、
その奥を理解して行く過程がある、
ということだ。
文章や物語というものは、
この理解の順番に関する娯楽ではないかと、
僕は考えている。
絵画や彫刻と違うのはそこだと。
絵画や彫刻では、
刺激と理解は一体である。
もし理解がディレイしたとしても、
理解という完成次元で、
絵画や彫刻は理解される。
理解する「過程」は問題とされない。
一方、一次元であるところの文章や物語は、
「理解して行く過程」そのものを問題とし、
それを楽しむのである。
二次元でも、たとえば水墨画などでは、
目線の順番が自然に移動するように描いておき、
理解の順番に関する娯楽を用意している。
鳥山明の漫画でも、
視線の誘導によってストーリーを理解させる例が、
よくネットに上がっている。
つまり水墨画やドラゴンボールは、
二次元でありながら、一次元に近いのだ。
何かが先行し、何かがディレイしてくる。
それが、物語という進行とシンクロするわけである。
これは、精密でリアルな絵には出来ないことだ。
絵が記号だから出来ることだと思う。
今、リアルな絵の漫画が増えたけど、
それは決して漫画にプラスになっていないと、
僕は考えている。
文章や話の上手な人は、
この先行とディレイがうまい。
ある興味のあることを先行させて、
ディレイしてきたことと合わせると、
理解が進むようにしていくからである。
何を先行させるかという選び方と、
何をディレイさせるかという選び方と、
その組み合わせによる理解の仕方が、
うまいというわけだ。
僕は昔から「展開」ということが苦手だった。
何をしていいか分からなくて、
途方に暮れることが多かった。
しかし、起こりうることをわーっと考えて、
それに順序をつけて書いていけばいい、
ということがなんとなく分かってきた。
その順序は、楽しい順とか、書きたい順とか、
思いついた順なのではなく、
理解が進む順、
さらに出来るならば、理解するのが楽しくなる順で、
書いていけばいい、
ということがなんとなく分かってきた。
するすると紐解く、という言葉は、
なんとなくこの感覚をうまく表現しているような気がする。
さらにそれらを、
焦点の誘導とターニングポイントの変節で繋いでいけばいい、
というところまではなんとなく理解している。
一次元の文章や物語とは、
二次元の絵や三次元の彫刻とは違う。
二次元や三次元の鑑賞とは、
理解が終わったあとにすることだ。
一方、一次元の鑑賞とは、
理解する過程そのものである。
何を先行させて、何をディレイさせて、
理解を進めていくべきかということは、
すなわち、一次元の本質であると僕は最近考えているわけである。
2017年05月21日
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