2017年05月21日

何を先行させて、何をディレイさせるのか

前記事のつづき、
もう少し拡大解釈する。

何を先行させて、何をディレイさせるのか、
ということを決めることが、
文章を書くことの本質ではないか?


文章や物語は、一次元である。
一次元ということは、
つまり、順番、後先こそが本質であるということだ。

だから、
何をディレイさせるか、
その為に何から先行させるか、
ということは、
その本質に関わるということである。



前記事の内容に戻れば、
他人の行動が、絵で見て0秒で伝わる。
他人の発言が、音で聞いて数十秒で伝わる。
他人の意図が、そのだいぶあとで伝わる。
噛み砕き、理解したあとにやって来るからだ。
なんなら誤解の物語では、真の意図が分かるのはラスト付近である。

他人の行動は意図に先行し、
意図は行動からディレイして伝わるわけである。


それは、私たちの「理解」というものの本質ではないか。
感覚器で受け取った刺激から、
その奥を理解して行く過程がある、
ということだ。

文章や物語というものは、
この理解の順番に関する娯楽ではないかと、
僕は考えている。

絵画や彫刻と違うのはそこだと。


絵画や彫刻では、
刺激と理解は一体である。
もし理解がディレイしたとしても、
理解という完成次元で、
絵画や彫刻は理解される。
理解する「過程」は問題とされない。

一方、一次元であるところの文章や物語は、
「理解して行く過程」そのものを問題とし、
それを楽しむのである。

二次元でも、たとえば水墨画などでは、
目線の順番が自然に移動するように描いておき、
理解の順番に関する娯楽を用意している。
鳥山明の漫画でも、
視線の誘導によってストーリーを理解させる例が、
よくネットに上がっている。
つまり水墨画やドラゴンボールは、
二次元でありながら、一次元に近いのだ。
何かが先行し、何かがディレイしてくる。
それが、物語という進行とシンクロするわけである。


これは、精密でリアルな絵には出来ないことだ。
絵が記号だから出来ることだと思う。
今、リアルな絵の漫画が増えたけど、
それは決して漫画にプラスになっていないと、
僕は考えている。


文章や話の上手な人は、
この先行とディレイがうまい。
ある興味のあることを先行させて、
ディレイしてきたことと合わせると、
理解が進むようにしていくからである。

何を先行させるかという選び方と、
何をディレイさせるかという選び方と、
その組み合わせによる理解の仕方が、
うまいというわけだ。



僕は昔から「展開」ということが苦手だった。
何をしていいか分からなくて、
途方に暮れることが多かった。

しかし、起こりうることをわーっと考えて、
それに順序をつけて書いていけばいい、
ということがなんとなく分かってきた。
その順序は、楽しい順とか、書きたい順とか、
思いついた順なのではなく、
理解が進む順、
さらに出来るならば、理解するのが楽しくなる順で、
書いていけばいい、
ということがなんとなく分かってきた。

するすると紐解く、という言葉は、
なんとなくこの感覚をうまく表現しているような気がする。

さらにそれらを、
焦点の誘導とターニングポイントの変節で繋いでいけばいい、
というところまではなんとなく理解している。



一次元の文章や物語とは、
二次元の絵や三次元の彫刻とは違う。
二次元や三次元の鑑賞とは、
理解が終わったあとにすることだ。
一方、一次元の鑑賞とは、
理解する過程そのものである。

何を先行させて、何をディレイさせて、
理解を進めていくべきかということは、
すなわち、一次元の本質であると僕は最近考えているわけである。
posted by おおおかとしひこ at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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