2017年05月22日

内容と量が比例すると考えるのは間違いだ

CMの現場にいると、
沢山の「素人の思い込みによる間違い」に触れることができる。
(直接自分に被害がない場合は、またかと笑ってられるが)

そのひとつに、
「CMは短い尺だから、短いことしか言えない」
(その逆で「沢山言いたいなら、長い尺を使わなければいけない」)
というものがある。
これは間違いだ。



それが真ならば、俳句の存在価値がない。
あるいは、キャッチコピーの存在価値もない。

「夏草やつはものどもが夢の跡」や、
「恋は遠い日の花火でない。」が、
どんな長編小説よりも濃い内容を伝えてくることを、
説明できなくなるではないか。


そもそも、
「表現したい内容のボリュームと、
表現された物理的長さのボリュームが比例する」
と思い込んでいること自体、
表現というものを知らない、としか言いようがない。


表現は凝縮のことである。


酒の熟成にたとえてもいい。
プラセンタの一滴にたとえてもいい。
膨大なものを凝縮し、
フィルターで雑味を濾し、
純粋なる素晴らしい一滴に凝縮することこそ、表現だ。

そもそも、
表現したいボリュームに表現されたものを比例させるのが、
間違いだ。
逆に表現のうまさとは、
表現したいボリューム/表現された文字数
なのだといってよい。

だから、すぐれた俳句やキャッチコピーは、文学足るのである。
世の中は、下手な表現など求めていない。
うまい表現を求めている。



「私は素晴らしい内容を表現したいと思っている。
それは世の中の役に立ち、素晴らしい理論を備えている。
しかしそれを説明するには本一冊必要で、
三行にまとめることは出来ないのだ」
というやつは、
つまり、表現する能力が低いのだ。

優れた表現者は、
その本一冊の本質を、三行に凝縮することが出来る。
しかも平板な三行ではなく、魅力的な三行にだ。
じゃあ本一冊書く必要なくね?
実は本一冊書く方が、素晴らしい凝縮された三行より、
書くのが楽なんだよね。
それを、表現者じゃない人は、分からないんだよね。


表現をするときにするべきことは、
以下のような段取りがあると思う。

1. 表現するべき内容のボリュームを決める
2. それを凝縮する
3. それを魅力的にする

素人が渦巻く広告の世界では、
1を決めるのに一ヶ月、下手したら半年かかる。
朝令暮改のごとき内容変更に、
私たちスタッフはそのたびに2と3を徹夜でやり、
次なる内容の変更のたびに虚ろな目になってゆく。

困った広告代理店の言い訳が、
「CMは短いんですから、内容を短く絞りましょう」
であった。
「いい加減きめろや、付き合ってられるかバカ」と言えないからである。

そして、15秒CMより、30秒CMは出稿料金は倍だから、
30秒でやりましょうとクライアントに言わせやすい、
つまり金儲け上の理由もあった。

ところがこれが通用したのはテレビ全盛期までで、
ネット広告で何分でも出来るようになったら、
「あれも言いたいこれも言いたいから、10分にしよう」
なんてことがまかりとおるようになる。
こうして半年間、表現内容の朝令暮改に付き合い、
自殺が生まれるというわけだ。


必要なのは、
「表現とは凝縮である」という認識である。

あんなややこしいことを、たった一行で!
ということが表現だ、
ということを徹底すれば、
このような悲劇は全て回避できるはずだ。

僕は、
「言いたいことを先に決めてください。
表現はそれから考えます。
一回につき一回分のギャラです」
と決めてきたのだが、
朝令暮改のたびにギャラを取りたくても、なあなあで潰されてきた。
逆に、めんどくさいし高騰するから頼むのをやめようという流れである。

それは、表現に対する無知だ。



ということで、三行にまとめなきゃな。

内容と量は比例しない。
内容を凝縮することが表現だ。
余った余剰の部分に、「たのしみ」が現れる。

表現とは、内容ではなくたのしみの部分のことだ。

さらに言うと、
たのしみの部分が内容にうまく関係しているのが、
なるほどと人を唸らせる、素晴らしい表現だ。
posted by おおおかとしひこ at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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