前記事のつづき。
極論する。
意味を伝えるのは、文章ではない。
内容や意味や主張や主義を「伝える」と思うから、
そもそも間違う。
文は、「意味を共有したくなる」ように書く。
凝縮された表現に価値があるのは、このためだ。
文を伝える手段だと考えると、
内容と量が比例してしまう。
その内容が価値あるものだと考えてしまうと、
価値があるから膨大であり、
価値があるから複雑な系をなし、
価値があるからそれを「伝える」べきだとし、
その何%伝わったか、
ということが表現の成果評価にしかならない。
そうではない。
勿論伝えるために文は書くのだが、
それは、自分勝手な都合を押し付けるのではないということだ。
読む人の気持ちを考えよう、
客観的になろう、なんてよく指導されるけど、
僕はこの指導は意味がないと思っている。
なぜなら、
価値ある内容を伝えようとする人は、
読む人のことは関わらず、これは価値あると思っているからだ。
表現者と受けとる人の間には、
とてもギャップがある。
生きている文脈や経験による差もあれば、
スペックそのものの差もある。
その間に成り立つのは、
「伝える」ではない。
「同じものを共有する」である。
なぜ噛み砕いて説明するのか。
それがマナーとか優しさとかではない。
相手が私の考えを共有しやすくするためである。
私の考えを紐解くのはなぜか。
過去から現在の流れを知れば、
結論が予測しやすいからである。
全ての文章の目的は、
伝えることではない。
考えを共有するためにある。
と考えると、
表現の工夫の仕方が変わってくる。
そもそも共有しにくい量を与えるのが間違いだとわかる。
両手で持てる量に凝縮しなければならないとわかる。
出来るなら片手で持てる量に凝縮するのが最高だ。
さらに言うと、荷物にならず武器になるといい。
それまでの荷物と融合して兼ねられるのがベストだ。
人が荷物を持つには、限界があるからである。
とげとげした持ちにくいやつより、
万能な持ちやすさがあるといい。
滅多に出番がないものより、普段使いできるやつがいい。
共有しやすいものの特徴を考えていくと、
表現そのもの、
表現内容そのものの、
洗練が必要なことがわかってくるだろう。
刺さる表現とか、深くに届く表現とか、
それは表現というものを知らない人の言葉だと僕は思う。
表現とは、最初からそれを目的にしているからだ。
馬から落馬みたいな、畳語ではないか。
浅くに共有することと、
心の深いところに共有することが、
共有にはある。
月金は燃えるごみの日、とかが前者だ。
もっと深いところに届く、内容と表現が一体化したものが、
ほんとうの表現というものだ。
ということで、
ほとんどの素人広告会社は、表現というものを何もわかってない。
精々情報を伝えることに終始して、今日も疲弊していればいい。
人を変えるほどの表現は、
伝えるだけじゃできない。
わたしとあなたが、融合するほどのなにかを共有したときである。
2017年05月22日
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