2017年05月27日

練るということ

練る、という過程を俯瞰してみる。


とあるアイデアを思いつく。
これは行けそうだぞ、という何か。
この時点では全てが見えていないが、
なんだか行けそうな気がする、
という光明のようなもの。

そのアイデアを元に、
ざっくり作っていく。
まだ全体が一通り見えている訳ではない。

色々妄想しているうちに、
あれもやりたい、これもいい、と、
連鎖的にアイデアが湧いてくる。
このときが多分一番楽しい。


で。

全体を俯瞰できるまで全部をつくる。
具体的にいうと、
事件が起こってから解決するまでの、
一通りの顛末である。

この段階で、すべてのパーツが過不足なく揃っている例は、
まれである。

光明を見いだしたとき、ほとんどは闇だ。

それのすべてに、スポットは当てきれていない。

どれくらいの所を埋めればすむかを定量的に俯瞰するには、
ブレイクシュナイダーのボードを作ってみるとよい。

二幕のアイデアが少なすぎるとか、
一幕が多すぎるとか、
三幕がうすっぺらいとか、
後日談が長いとか、
さまざまな過不足を自覚できる。
(上にあげた具体は、たいがいよくあること)

ストーリーに関するアイデアを増やすには、
人間関係図を書くのも有効だ。
こういう役割のキャラが欲しい、
ということに気づけるからだ。
あるいは名作の人物相関図を作ってみて、
自分の話には、意外とこういうギャラいないなあ、
なんて知ることもいい。

取材してみて、
実際のリアルな場所や人に会い、
こういうことになっていたのか、
と知ることも大事だ。
作品内に反映させられる新しいネタも増えるだろう。


ある程度ここまで出来てくると、
複数のアイデアが喧嘩をしはじめる。

あれとあれを同時にやるのは難しいとか、
あれとあれが矛盾するとか。


ここから、練りの後半戦。

すべてに矛盾がなくスッキリするように、
整理していく。
捨てることがベストだけど、
捨てることは愛着もあり難しい。
ボードを作ってみるとわかるが、
「このパートでアイデア(カード)が多すぎるから、
○個減らすこと」と、
自分にノルマを課すと整理しやすい。
締め切りを作ってしまうのだ。

そうすると、
「この本質を示すには、最低限何個のアイデアだけで表現できるだろうか」
というところを考えることが出来る。

似たものをひとつにまとめたり、
あることとあることは実は同じものの派生である、
なんてふうにすることも出来るかも知れない。
アイデア同士を系統立てて、主従関係を作れるかも知れない。
あるいは、主従関係を作るために、アイデア同士をよりいい形に作り替えられるかもしれない。

こうして、
少しずつ秩序が生まれ始める。

ログラインを書いてみると、
この話の本質は何か?
と自分に問うことが可能だ。
モチーフの面白さは何か?
売りは何になるのか?
クライマックスはどう面白いのか?
なんてあたりが見えてくる。
ストーリーそのものの面白さはどうだろうと、
ログラインを何回も書いていい。
何パターンか作ってみてもよくて、
それぞれのパターンのプロットを書き出してみて、
比較検討しても構わない。

キャラクターが魅力的ならそれを売りの中心にすればいい。
それを活かすようにストーリーを組み替えていくといい。
足りないキャラは作り出し、多いキャラは統合すればいい。

ストーリーの二転三転が魅力的なら、それを売りの中心にすればいい。
伏線やミスリードを活かすように、
場面やキャラクターを工夫すればいい。

このあたりになると、
何かの「特徴」をそのストーリーは持ち始める。

他に似た感じはどういうのか、をぼーっと考えるのもいい。
影響されるから見ない人もいるし、
前任者の偉業を確認した上で、
それを越えていこう、
あるいは自分はこういうところで勝負しようと、
決める人もいる。
(僕は後者を勧めるが、
すぐ影響されたりパクりがちな人ならやめておけ)

なんとなく纏まりが見えてきたら、
またボードを一から作ってみるといい。
プロットを白紙に書いてみてもいい。
そうすると、
過不足がさらに見えてくる。

キャラクターが足りない、
エピソードが足りない、
動機が足りない、
ターニングポイントが足りない、
二転三転が足りない、
ミスリードや仕掛けが足りない、
サブプロットか足りない、
あるいは、多い。

これらが「全体に秩序ある一本」になるまで、
新しいアイデアで古いアイデアを上書きしてみたり、
アイデアを足してみたり、
アイデアを引いてみたりする。

全体がスッキリしたひとつのアイデアに基づいた、
秩序ある素敵な構造に纏まったときが、
完成だ。
それはログラインもスッキリ書けるし、
プロットもスッキリ書けるし、
人物関係図もスッキリ整理されているし、
テーマやサブプロットの関係も分かりやすくて際立っているだろう。

そうなるまで、
雑味を除くフィルターにかけていくのである。

融合や更新や削除や追加を、
何度も何度も繰り返し、
アイデアに詰まったり新しいアイデアに飛び付いたり、
そのアイデアが結局意味がなかったと気づいて捨てたり、
あることに煮詰まったら、
前のアイデアを拾えば全てが解決したり、
解決したかと思ったらやっぱり使えなかったり、
そういうことをひたすらやり、
素晴らしいひとつの秩序になるまで、
練ったり煮詰めていく。


ある時点になると、
新しく思いついたアイデアが、
今あるどれも良くしない、というところに来る。
そのときが恐らく完成だ。

そういう状態のときは、
「そこの領域にあるもの、
その周辺領域にあるものは、
すべて考え尽くした」
という状態になっているはずだ。

つまり、
練るということは、
考え尽くすということである。


それはほんとに面白いのか?
それは世の中にどういうインパクトを与えるのか?
それは世の中をどう変えうるのか?
そのテーマがよいのか?
そのモチーフがよいのか?
ワクワクするのか?ハラハラするのか?
感動するのか?笑えるのか?
結局本質になっているのは何か?
何がコアか?

そういうことを考え尽くすことを、
練る、という。


練り終わったら、
あとは書いていくだけだ。
僕は、これに9割を費やしていいと思う。

執筆なんて一週間でいい。
ということは、9週間練ることだ。

1日8時間、9週間、そのことだけを練る、
ということで、始めて必要な時間を確保できる。
プロならそういう生活。
アマチュアなら、仕事の合間にやるからもっとかかる。


練っている間は、実質なにもしていない。
膨大なメモや写真や本を読んだりネットを見たりしているはずだ。

そのなかで思いつき、メモをつくり、
一覧表にしてみたり、
また部分を思いついたりして、
秩序は徐々に作られていく。

僕はこれらのものは、
データであるよりも、物理的メモのほうがいいと考えている。
色々見比べられるからである。
アイデアの整理すら、手でやったほうが効率がいい。
手でやることで暗記が進むのは、勉強したらわかることだ。
整理する経験そのものが、アイデアを練るということだからだ。

それらの物理証拠が、次のアイデアを連れてくる。
こうやって、考え尽くすという行為はつづく。




ストーリーづくりだけでなく、
研究者などは開発ノートを作ることもある。
それは多分これと同じことをやっている。
試したいアイデアを書き、結果はどうだったかを書き、
何が原因で何を解決しなきゃいけないかを、
メモしてどこかで俯瞰したりするのだろう。
(実際、カタナ式の開発ではそのようにしている。
ちょっとマニュアルづくりに手間取っております)


練るということ。

それは、はじめに見いだした光明からはじまって、
全てが素晴らしい秩序をなすまで、
考え尽くすということである。

考え尽くされていないものは、
練りが足りない。
posted by おおおかとしひこ at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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