それは、何が面白いのか?
ここでは、いつもストーリーの面白さについて考えている。
その面白さは、ストーリーの面白さではないかも知れないぞ。
キャラの魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
人間関係の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
役者の魅力も、ストーリーの面白さに含まれない。
(その役者が別の役をやったときにイマイチなら、
それは役の魅力であったのだ。
あるいはその役を誰か別の人が演じたとき、
やはりキャラの魅力が減るのなら、
役よりもその人に魅力があったのだ。
勿論、役者と役の相性も多分にある)
世界観の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
作り込まれた設定や見たこともない大自然もだ。
そのストーリーがその世界観でしかあり得ないのなら、
その世界観はストーリーの面白さに含まれてくる。
分離できないようになって、初めてストーリーの面白さになる。
デザインや音楽の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
しかしこれは世界観と同様、以下略。
単発のシチュエーションの面白さは、ストーリーの面白さに含まれない。
その面白いシチュエーションから、
どう展開するかという面白さが、
ストーリーの面白さだ。
そのシチュエーション単発だけなら、それは出落ちという。
そのキャラが、面白い運命に翻弄されたり、
決断をして何かと何かを引き換えにするのは、
ストーリーの面白さである。
そのキャラが、ハッピーエンドになったり、
バッドエンドになったりする面白さは、
ストーリーの面白さである。
そのキャラとともに、途中経過や結果に一喜一憂するのは、
ストーリーの面白さである。
こうなるだろうなという予測が、
いい意味で裏切られるのは、ストーリーの面白さである。
次の展開が読めず、ハラハラするのは。
ストーリーの面白さである。
この先何かありそう、というワクワクした期待は、
ストーリーの面白さに含まれない。
それはシチュエーションやキャラの魅力であるこもが多く、
そこから何も展開しなければ、
それは単発の面白さに過ぎず、出落ちになるからだ。
テーマの深さは、ストーリーの面白さに含まれない。
誰でもそのテーマについて語る資格があるからだ。
作者が提出した全く新しいテーマだとしても、
それは作者が先行者であったに過ぎず、
誰もがその議論のテーブルについていい。
テーマはオープンである。
オープンであるから、皆の参加できるものになる。
しかし、テーマをどのようなストーリーで表したか、
という面白さは、ストーリーの面白さである。
テーマとストーリーが不可分に混ざっていることが、
そのストーリーの面白さである。
もしそのテーマそのものが面白かったら、
それで論文でも小説でも議論でも作れるし、
別のストーリーも作れる。
しかしそのテーマとストーリーの組み合わせが最上によければ、
それはストーリーの面白さである。
カタルシスはストーリーの面白さに含まれない。
ストレス解消だけならば、
スポーツや酒やカラオケでも可能だ。
泣くというカタルシスも、ストーリーの特権ではない。
悲しい音楽をかけて泣くのだってできるから。
しかし感情移入したキャラが、
カタルシスを感じるような人生の結果を出したとき、
私たちの心にカタルシスが起こるのは、
ストーリーの面白さである。
感情移入はストーリーの面白さに含まれない。
そこら辺の誰かに感情移入することはよくある。
公園のおじさんにも、子供にも、無生物たとえば電車にも。
その人が何か目的を持ち、
それを果たすなり果たせなかったりしたことを、
我が事のようにカタルシスを感じることは、
ストーリーの面白さである。
つまりストーリーにおける感情移入は、
感情移入しはじめること、感情移入し続けること、
感情移入がカタルシスへ昇華すること、
感情移入が終わり実世界へ戻ってくること、
のプロセスそのものにある。
落ちの面白さは、ストーリーの面白さだ。
落ちだけ単独では存在しない。
今までのことがあってこの落ち、という面白さだからである。
これは線の面白さそのものだ。
切り分けにくいものを、なんとか切り分けてみた。
多くの誤解は、
ガワ(キャラ、世界観、デザイン、設定)や
点(シチュエーション、感情移入、テーマ、カタルシス)
が面白いときに、
それが含まれる全体(ストーリー)も面白い、
と判断してしまうことである。
部分で全体を判断するわけだ。
それは尻尾だけを見て、象は細い、と判断する誤解である。
もっとも、その誤解を利用して金をふんだくる悪徳業者もいる。
メッキに騙されたまま、
人は「面白い」と判断し続ける。
それが部分の面白さでしかない、
という理由は、
ストーリーとは全体のことであり、
順序のことであるからだ。
それが順序をたどる面白さになっていれば、
それはストーリーとして面白いと言えるだろう。
逆順にしてもたいして面白さが変わらないのなら、
それはストーリーが面白いわけではなく、
その部分が面白いだけである。
今、果たしてストーリーの面白さが、
本当に必要か、不透明な時代に来ているような気がする。
部分の面白さが良ければそれでよいではないか、
という感覚が蔓延している。
それは、人の集中力が1分ぐらいしか持たない時代になったからかもしれない。
纏まったことを集中して聞くことが、
ラインやネットがあると、難しい環境になっているからだ。
詰まらない授業をスマホしながら聞いてしまうと、
詰まらない授業の辛さと、面白い授業の差が分からなくなる。
詰まらない授業の罪が分からなくなると、
面白い授業の価値が下がる。
だから、一分間面白いね、が出来れば面白い、
という時代になりつつある。
この時代にストーリーを産み出すことは、
価値あることなのだろうか。
分かる人にしか分からない、
特殊な技能になりつつあるのではないか。
それはつまり、オンタイムのポップスではなく、
オールドファッションの伝統芸能の枠に入りかけている、
ということを意味しないか?
面白い映画が減った気がする。
ガワの強調ばかりされ、
それはガワで踊る大衆とガワにしか資金を提供しない、
製作委員会とマスコミのせいである。
ガワへの反応なら数字が読める、という事実が後押ししている。
それをやっているうちに、
映画のストーリーの面白さについて、
誰も分からなくなってしまったような錯覚すらある。
ストーリーの面白さは、ガラパゴス化しているのだろうか?
実際、ちょっと分からなくなってきた。
「ムービー」という言葉が、
今100%「ストーリー」のことではなくなった。
特にネット動画とかね。
それでも、暗い箱の中で、
二時間集中するという娯楽はなくならないとは思う。
金儲けだけで考えるなら、
パブリックビューイングのほうが、
詰まらないストーリーより稼げるかも知れない。
本当に面白い映画は、
面白いガワと、面白いストーリーの融合によってなされてきた。
ここでは、面白いストーリーについて、
そのやり方を考えてきたのだが、
それって今需要ある?という気すらする。
人々は、ガワしか求めていないわけではない。
本当に面白いストーリーがあれば絶対ほしいはずだ。
しかし、それにリーチさせる方法がない限り、
薄っぺらいガワ産業がこれからもはびこるだろう。
これはシステムの問題である。
本当に面白いストーリーの作り方や、
本当に面白いストーリーのあり方が、
もっとみんな分かれば、
それはガワの面白さに過ぎず、
炭酸しか入ってないチューハイのようなものだ、
と批判できようものを。
沢山書いてきたけど、
なかなかストーリーの面白さに一気に迫れなくて、
申し訳ない。
少しずつだけど、真髄に迫ることはやめないでいようと思う。
ガワにも流行がある。
ストーリーの面白さについても、流行がある。
今はリアリティー重視でケレン味が忌避される感じがしている。
僕はケレン派なので、肩身が狭い。
映画は総合芸術である。
その全てが面白くあるべきだ。
我々脚本家は、そのストーリー部門という、
根幹部分の面白さについて考えている。
(そして、末端との見事な連携についても、
考えなくてはならない)
2017年05月30日
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