2017年05月30日

面白いの種類

それは、何が面白いのか?

ここでは、いつもストーリーの面白さについて考えている。
その面白さは、ストーリーの面白さではないかも知れないぞ。


キャラの魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
人間関係の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
役者の魅力も、ストーリーの面白さに含まれない。
(その役者が別の役をやったときにイマイチなら、
それは役の魅力であったのだ。
あるいはその役を誰か別の人が演じたとき、
やはりキャラの魅力が減るのなら、
役よりもその人に魅力があったのだ。
勿論、役者と役の相性も多分にある)


世界観の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
作り込まれた設定や見たこともない大自然もだ。
そのストーリーがその世界観でしかあり得ないのなら、
その世界観はストーリーの面白さに含まれてくる。
分離できないようになって、初めてストーリーの面白さになる。

デザインや音楽の魅力は、ストーリーの面白さに含まれない。
しかしこれは世界観と同様、以下略。

単発のシチュエーションの面白さは、ストーリーの面白さに含まれない。
その面白いシチュエーションから、
どう展開するかという面白さが、
ストーリーの面白さだ。
そのシチュエーション単発だけなら、それは出落ちという。

そのキャラが、面白い運命に翻弄されたり、
決断をして何かと何かを引き換えにするのは、
ストーリーの面白さである。

そのキャラが、ハッピーエンドになったり、
バッドエンドになったりする面白さは、
ストーリーの面白さである。
そのキャラとともに、途中経過や結果に一喜一憂するのは、
ストーリーの面白さである。

こうなるだろうなという予測が、
いい意味で裏切られるのは、ストーリーの面白さである。

次の展開が読めず、ハラハラするのは。
ストーリーの面白さである。

この先何かありそう、というワクワクした期待は、
ストーリーの面白さに含まれない。
それはシチュエーションやキャラの魅力であるこもが多く、
そこから何も展開しなければ、
それは単発の面白さに過ぎず、出落ちになるからだ。


テーマの深さは、ストーリーの面白さに含まれない。
誰でもそのテーマについて語る資格があるからだ。
作者が提出した全く新しいテーマだとしても、
それは作者が先行者であったに過ぎず、
誰もがその議論のテーブルについていい。
テーマはオープンである。
オープンであるから、皆の参加できるものになる。

しかし、テーマをどのようなストーリーで表したか、
という面白さは、ストーリーの面白さである。
テーマとストーリーが不可分に混ざっていることが、
そのストーリーの面白さである。
もしそのテーマそのものが面白かったら、
それで論文でも小説でも議論でも作れるし、
別のストーリーも作れる。
しかしそのテーマとストーリーの組み合わせが最上によければ、
それはストーリーの面白さである。


カタルシスはストーリーの面白さに含まれない。
ストレス解消だけならば、
スポーツや酒やカラオケでも可能だ。
泣くというカタルシスも、ストーリーの特権ではない。
悲しい音楽をかけて泣くのだってできるから。
しかし感情移入したキャラが、
カタルシスを感じるような人生の結果を出したとき、
私たちの心にカタルシスが起こるのは、
ストーリーの面白さである。

感情移入はストーリーの面白さに含まれない。
そこら辺の誰かに感情移入することはよくある。
公園のおじさんにも、子供にも、無生物たとえば電車にも。
その人が何か目的を持ち、
それを果たすなり果たせなかったりしたことを、
我が事のようにカタルシスを感じることは、
ストーリーの面白さである。
つまりストーリーにおける感情移入は、
感情移入しはじめること、感情移入し続けること、
感情移入がカタルシスへ昇華すること、
感情移入が終わり実世界へ戻ってくること、
のプロセスそのものにある。

落ちの面白さは、ストーリーの面白さだ。
落ちだけ単独では存在しない。
今までのことがあってこの落ち、という面白さだからである。
これは線の面白さそのものだ。



切り分けにくいものを、なんとか切り分けてみた。

多くの誤解は、
ガワ(キャラ、世界観、デザイン、設定)や
点(シチュエーション、感情移入、テーマ、カタルシス)
が面白いときに、
それが含まれる全体(ストーリー)も面白い、
と判断してしまうことである。

部分で全体を判断するわけだ。
それは尻尾だけを見て、象は細い、と判断する誤解である。
もっとも、その誤解を利用して金をふんだくる悪徳業者もいる。
メッキに騙されたまま、
人は「面白い」と判断し続ける。

それが部分の面白さでしかない、
という理由は、
ストーリーとは全体のことであり、
順序のことであるからだ。
それが順序をたどる面白さになっていれば、
それはストーリーとして面白いと言えるだろう。
逆順にしてもたいして面白さが変わらないのなら、
それはストーリーが面白いわけではなく、
その部分が面白いだけである。



今、果たしてストーリーの面白さが、
本当に必要か、不透明な時代に来ているような気がする。
部分の面白さが良ければそれでよいではないか、
という感覚が蔓延している。
それは、人の集中力が1分ぐらいしか持たない時代になったからかもしれない。
纏まったことを集中して聞くことが、
ラインやネットがあると、難しい環境になっているからだ。
詰まらない授業をスマホしながら聞いてしまうと、
詰まらない授業の辛さと、面白い授業の差が分からなくなる。
詰まらない授業の罪が分からなくなると、
面白い授業の価値が下がる。

だから、一分間面白いね、が出来れば面白い、
という時代になりつつある。

この時代にストーリーを産み出すことは、
価値あることなのだろうか。
分かる人にしか分からない、
特殊な技能になりつつあるのではないか。
それはつまり、オンタイムのポップスではなく、
オールドファッションの伝統芸能の枠に入りかけている、
ということを意味しないか?


面白い映画が減った気がする。
ガワの強調ばかりされ、
それはガワで踊る大衆とガワにしか資金を提供しない、
製作委員会とマスコミのせいである。
ガワへの反応なら数字が読める、という事実が後押ししている。

それをやっているうちに、
映画のストーリーの面白さについて、
誰も分からなくなってしまったような錯覚すらある。

ストーリーの面白さは、ガラパゴス化しているのだろうか?
実際、ちょっと分からなくなってきた。

「ムービー」という言葉が、
今100%「ストーリー」のことではなくなった。
特にネット動画とかね。


それでも、暗い箱の中で、
二時間集中するという娯楽はなくならないとは思う。
金儲けだけで考えるなら、
パブリックビューイングのほうが、
詰まらないストーリーより稼げるかも知れない。

本当に面白い映画は、
面白いガワと、面白いストーリーの融合によってなされてきた。
ここでは、面白いストーリーについて、
そのやり方を考えてきたのだが、
それって今需要ある?という気すらする。

人々は、ガワしか求めていないわけではない。
本当に面白いストーリーがあれば絶対ほしいはずだ。
しかし、それにリーチさせる方法がない限り、
薄っぺらいガワ産業がこれからもはびこるだろう。

これはシステムの問題である。

本当に面白いストーリーの作り方や、
本当に面白いストーリーのあり方が、
もっとみんな分かれば、
それはガワの面白さに過ぎず、
炭酸しか入ってないチューハイのようなものだ、
と批判できようものを。



沢山書いてきたけど、
なかなかストーリーの面白さに一気に迫れなくて、
申し訳ない。
少しずつだけど、真髄に迫ることはやめないでいようと思う。

ガワにも流行がある。
ストーリーの面白さについても、流行がある。
今はリアリティー重視でケレン味が忌避される感じがしている。
僕はケレン派なので、肩身が狭い。


映画は総合芸術である。
その全てが面白くあるべきだ。
我々脚本家は、そのストーリー部門という、
根幹部分の面白さについて考えている。
(そして、末端との見事な連携についても、
考えなくてはならない)
posted by おおおかとしひこ at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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