2017年05月30日

奇をてらう

オリジナルにならなければならない。
誰にも似てないものを作らなければならない。
それは人類を新しく更新し、前に進むものになるべきだ。

だけど、突飛なものを作ればOKではない。

誰にも似てないもので、
かつ、
誰にでも理解できて、楽しめて、共有できるものでなければならない。


突破しようとして、
奇をてらうことは、
逆に誰にでもできる。

若いうちはそういうことも多い。
私はオリジナルであると強烈に主張することは、
とても歓迎だ。
誰にも似てない証明として、それは素晴らしい。

だが、それが奇をてらうだけで、
中身がたいしたものでなかったり、
出落ちになったり、
結局なんだったのか分からないのが問題なのである。

何かに似てないのはいいれけど、
落ちがなかったりするのは、片手落ちだ。

ストーリとして破綻しては、なんの意味もない。
「それがなんの意味があったのか」が、
ストーリーの本質だからである。

これが絵画や彫刻なら、
衝動や破綻だけで突破できる。
何にも使ってない材料や、
誰もやってないやり方を編み出すだけで、
それはオリジナルになりうる。

ストーリーの面白さとは、
それだけで済まないのが問題だ。


ストーリーとは、意味のことだ。
起承転結とは、全てが破綻なく説明がいくことをいう。
奇をてらうことは、説明がつかないことには都合がいい。
しかし結局どういうことなんだ?に答えるのがストーリーであるから、
破綻はそもそもストーリーではない。

(ストーリーとは、突き詰めれば理である。
世界に理がなく、混沌としていてよいのなら、
ストーリーは必要ない。
混沌とした理不尽な世の中に、理という秩序をもたらすのが、
知性や科学である。
そして知性も科学も創作物語も、
ストーリーとして説明がいくようにする点で共通である)


奇をてらうことは、若いやつなら誰でも出来る。
もちろん、その出来不出来はある。
たとえば、町中でちんこだして走るのはレベルが低い奇のてらい方だ。
誰でも出来そうにないことをする、
という点で奇をてらうことは、合格だ。

しかしその先の、理があるという点では、
奇をてらうことは、意味がないのだ。


ここが難しいところだ。
平凡で当たり前のことをやっても新しくない。
奇をてらうだけではストーリーにならない。
奇をてらいつつ、理に納めるには無理が生じる。

結局、誰もが新しいと思う範囲で、
オリジナルな物語とテーマを見つけるしかないのだ。

王道だけに、一番難しい。
だからこそ、やりがいがある、
人類最古の芸術のひとつだと思うのさ。

誰にも分からないものを作っても意味がない。
既にみんなが飽きてることをしてもしょうがない。
奇をてらうだけでもだめだ。

この八方塞がりを突破する、
誰にでも楽しめて、理解できて、
誰もが同じ気持ちになる、
オリジナリティーあるストーリー。

これを、私たちは作らなければならないのだ。
僕は特別なことを言っていない。
当たり前だけど、やらなければならないことを、
書いたつもりである。
posted by おおおかとしひこ at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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