オリジナルにならなければならない。
誰にも似てないものを作らなければならない。
それは人類を新しく更新し、前に進むものになるべきだ。
だけど、突飛なものを作ればOKではない。
誰にも似てないもので、
かつ、
誰にでも理解できて、楽しめて、共有できるものでなければならない。
突破しようとして、
奇をてらうことは、
逆に誰にでもできる。
若いうちはそういうことも多い。
私はオリジナルであると強烈に主張することは、
とても歓迎だ。
誰にも似てない証明として、それは素晴らしい。
だが、それが奇をてらうだけで、
中身がたいしたものでなかったり、
出落ちになったり、
結局なんだったのか分からないのが問題なのである。
何かに似てないのはいいれけど、
落ちがなかったりするのは、片手落ちだ。
ストーリとして破綻しては、なんの意味もない。
「それがなんの意味があったのか」が、
ストーリーの本質だからである。
これが絵画や彫刻なら、
衝動や破綻だけで突破できる。
何にも使ってない材料や、
誰もやってないやり方を編み出すだけで、
それはオリジナルになりうる。
ストーリーの面白さとは、
それだけで済まないのが問題だ。
ストーリーとは、意味のことだ。
起承転結とは、全てが破綻なく説明がいくことをいう。
奇をてらうことは、説明がつかないことには都合がいい。
しかし結局どういうことなんだ?に答えるのがストーリーであるから、
破綻はそもそもストーリーではない。
(ストーリーとは、突き詰めれば理である。
世界に理がなく、混沌としていてよいのなら、
ストーリーは必要ない。
混沌とした理不尽な世の中に、理という秩序をもたらすのが、
知性や科学である。
そして知性も科学も創作物語も、
ストーリーとして説明がいくようにする点で共通である)
奇をてらうことは、若いやつなら誰でも出来る。
もちろん、その出来不出来はある。
たとえば、町中でちんこだして走るのはレベルが低い奇のてらい方だ。
誰でも出来そうにないことをする、
という点で奇をてらうことは、合格だ。
しかしその先の、理があるという点では、
奇をてらうことは、意味がないのだ。
ここが難しいところだ。
平凡で当たり前のことをやっても新しくない。
奇をてらうだけではストーリーにならない。
奇をてらいつつ、理に納めるには無理が生じる。
結局、誰もが新しいと思う範囲で、
オリジナルな物語とテーマを見つけるしかないのだ。
王道だけに、一番難しい。
だからこそ、やりがいがある、
人類最古の芸術のひとつだと思うのさ。
誰にも分からないものを作っても意味がない。
既にみんなが飽きてることをしてもしょうがない。
奇をてらうだけでもだめだ。
この八方塞がりを突破する、
誰にでも楽しめて、理解できて、
誰もが同じ気持ちになる、
オリジナリティーあるストーリー。
これを、私たちは作らなければならないのだ。
僕は特別なことを言っていない。
当たり前だけど、やらなければならないことを、
書いたつもりである。
2017年05月30日
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