主人公は、どういう考え方から、
最終的にどういう考え方に変化する?
相変わらずロッキーを例にとろう。
主人公ロッキーは、
最初は「誰も俺を認めてくれない」という考え方のなかにいる。
物語のラストに、「俺は誇りを持てた」
という考え方に変化する。
それは、物語全体を通して、
誇りを持つに値する何かを達成したからだ。
(具体的には、仲間を増やし、
アポロとの試合で最後まで立ち、
試合には負けたが勝負には勝った)
この考え方、感じ方、生き方の変化そのものが、
映画である。
とある感覚の主人公が、
二時間たってもたいして変化しなかったり、
変化しかかってももとに戻るのは、映画ではない。
どれだけの変化が起こったのか、
その大きさこそが、
映画のストーリーのダイナミズムである。
ダイナミックというと、
ついつい絵のスケール感を考えてしまうけれど、
どんな宇宙よりも心のほうが広い。
ビルが崩壊するよりも、
ひとの心が潰れることを描くほうが、
映画としてはスケールが大きい。
スケールという言葉でイメージしにくいのなら、
それは深いといってもいい。
深さとはつまり、心のことに関するスケールのことだ。
ビル一個分とか、東京ドーム何個分とか、
太陽一個とか、そういう物理的スケールは、
単位が存在する。メートル、平方メートル、立方メートルだ
しかし心の深さには単位がない。
こっちのほうが深いとか、
この深さとこの深さを足すとあの深さになる、
とかない。
深い、と感じるのは主観的なことだ。
だから心であり、
だから文学には価値がある。
(このストーリーが28深いとか、
あのストーリーが45深いとか言えない。
しかしマーケティングや投資は、
ストーリーを数値化して扱うことだ。
潜在観客数とかね。バカの極みなり)
そのストーリーの価値は、
どれほど考え方が変わったかで決まる。
その大きさを、ダイナミックであるという。
ちょっとした変化は、普通の話。
ものすごい変化が、面白い話。
ただ変化してもだめだ。
自然に、そこからそこへ変化するような話でなければならない。
この自然な感じ、無理のない感じが難しいから、
ダイナミックで面白い話を書くのは難しいのである。
変化はどのようにして起こるのか。
それは何から何へか。
それは、一切心のなかを描かずに、
エピソードと言動だけで描かなければならない。
それを見て、思わず観客も考え方が変わるほどの、
エピソードと言動を描かなければならない。
その上で主人公の考え方が変化すれば、
それは自然な無理のない、
むしろ当然の、
変化に見える。
まず、どんな考え方か。
最後はどんな考え方に変化しているか。
それはどのようなことをして。
人間には様々な内蔵や骨や血管や筋肉があるけど、
元々の発生は、管からだそうだ。
管の一方が口に、もう一方が肛門になり、
あとは細胞分裂を複雑にして人間になる。
つまり人間の本質は、
口と肛門と間の管である。
これになぞらえるならば、
最初の考え方が口に相当し、
間の出来事が管に相当し、
最後の考え方が出口(肛門じゃあれなので)に相当する。
ストーリーの一番の本質は、そのへんにあるような気がする。
その上に、主人公とか事件とか、行動とか台詞とか、
サブプロットとかどんでん返しとかが、
骨格や筋肉や血管のように、
周囲に出来上がってくるわけである。
人体は管から発生するけど、
ストーリーが考え方や変化から生まれるとは限らない。
そこのところが難しいのだけど、
最終的には、
考え方の変化からあたかも生まれたように出来ているのが、
完璧なストーリーである。
もし意識していなかったら、
出来上がったストーリーでチェックしてみることだ。
主人公(やその他の人物)の、
ストーリーが始まる前の考え方のリスト。
ストーリーが終わったあとの考え方のリスト。
それは、自然でダイナミックな変化だったろうか。
もしそれが不自然ならば、
変化を自然になるようにストーリーを書き直すか、
そのストーリー内で自然になるよう変化を小さくするべきだ。
その範囲内での、
考え方の変化の大きさの、
総和なのか最大値なのかが、
あなたの話の深さである。
(もちろん58深いなどと数値化できないし、
あっちの深さと数値比較は出来ない。
しかし明らかに深さに違いがあることは、
我々人間は感知することが出来る)
勿論、テーマは、その変化のなかにいる。
いないのなら、
テーマが不定な、詰まらない話である。
2017年05月31日
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