2017年06月01日

人はどこまで怠惰になるか

原始の頃、
何かを取りに行くにはリスクがあった。
危険を顧みず、成功したものだけが果実を得た。
危険を顧みず、死んだ者もたくさんいた。

何かを得るには、死のリスクが伴う。
ものすごく原始的には真実である。

ところが、「それをしなくてよいですよ」
というものが生まれた。
誰かに取りに行かせるので、
あなたはそのリスクを負わなくてよいのです、
という考え方だ。

大きく言うと、それがサービスの正体である。


そもそも商人は、
誰かがリスクを負って得てきたものを集めて、
リスクを負いたくない人に果実を売ることで、
商売を成立させている。

金というものを仲介にして、である。

つまり、商人はリスクを負わない。
(不良在庫を抱え、売れずに損をしたり、
金の価値が暴落して、
持っている金が役に立たなくなる、
というリスクはある。
しかし、命をかけて何かを取りに行くリスクとは質が異なる)

私たち大衆は、
商人からリスクを負わなくてよいですよ、
という甘い汁を吸わされて、
いわば甘やかされている。

食べ物を取る、という基本的なことでいうと、
誰かがリスクを負って得てきたものを、
誰かがリスクを負って運んできたものを、
スーパーで買う。金銭と交換である。
もはや家でつくるリスクも、
片付けのリスクも、
外食では不要だ。
だから外食産業は、サービス料を取る。
それは、大衆が負う必要のない、リスク代である。

これを中間マージンとか、利益とかいう。


知識も同じだ。
誰かが苦労して得てきた真理や知識を、
その苦労なく本などで売る。
ネット時代になって、
知識は無料になりつつある。

セックスもそうだ。子育てもそうだ。
葬式もそうだ。
○○代理店や代理業や代行は、
すべてサービス業である。

彼らは、リスクを負わない。
負うのは、現場の、ものを取りに行く人たちだ。


よく広告代理店とプロダクションは、
鵜飼いと鵜にたとえられる。
私たち現場の者は鵜である。
リスクを負って得てきた魚を、
私たちは金銭と引き換えに吐き出す。
それは、その金銭で別の何かを、
リスクなく得るためである。


何が言いたいかというと、
みんな死にたくないのだ。
リスクを負いたくないのだ。
リスクを負わないと、何かを得られないのに。


私たちは、現場の人である。
リスクを負い、つまり死と引き換えに、
私たちは作品をつくる。
私たちの死とは、肉体的な死のことではなく、
「詰まらない」という評価のことだ。
沢山の悪評ももらいつつ、
それでも良かったという人もたくさんいれば、
私たちは死なずに生きていく。

死を恐れるなとは言わない。
怖い。
しかし、成功したやつは、
どこかでえいやと死をかけた人だけなのだよ。

それを、商人が買い漁る。


さらに言うと、
商人が金貸しから金を借りないと、
映画を作ることが出来ない。
金貸しは何もリスクを負ってないから、
リスクを負う私たちからは、
差別されて当然である。
もっとも汚い仕事であると。
(葬儀屋さんや掃除屋さんは、美しい仕事であると僕は思う。
どんなにキレイなスーツを着ても、金貸しは汚い)


僕は、世界は単純にこう出来ていると考えている。

プロデューサーや編集者は商人で、
製作委員会や出資者は金貸しである。



たとえばアマゾンなんかを例にとれば、
ポチるだけにリスクを減らしてしまったわけだ。

人は怠惰に慣らされている。
映画館に行くリスクを、ネットフリックスが減らしているらしい。


映画はどこへ行くのか。
物語は、相変わらず泥々のリスクと最高の果実を描くだろう。
現実は、ポチるリスクだけである。
投資とか運用とか暴落とか風評とか、金貸しの論理が世界を覆いつつある。
リアルはどっちだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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