原始の頃、
何かを取りに行くにはリスクがあった。
危険を顧みず、成功したものだけが果実を得た。
危険を顧みず、死んだ者もたくさんいた。
何かを得るには、死のリスクが伴う。
ものすごく原始的には真実である。
ところが、「それをしなくてよいですよ」
というものが生まれた。
誰かに取りに行かせるので、
あなたはそのリスクを負わなくてよいのです、
という考え方だ。
大きく言うと、それがサービスの正体である。
そもそも商人は、
誰かがリスクを負って得てきたものを集めて、
リスクを負いたくない人に果実を売ることで、
商売を成立させている。
金というものを仲介にして、である。
つまり、商人はリスクを負わない。
(不良在庫を抱え、売れずに損をしたり、
金の価値が暴落して、
持っている金が役に立たなくなる、
というリスクはある。
しかし、命をかけて何かを取りに行くリスクとは質が異なる)
私たち大衆は、
商人からリスクを負わなくてよいですよ、
という甘い汁を吸わされて、
いわば甘やかされている。
食べ物を取る、という基本的なことでいうと、
誰かがリスクを負って得てきたものを、
誰かがリスクを負って運んできたものを、
スーパーで買う。金銭と交換である。
もはや家でつくるリスクも、
片付けのリスクも、
外食では不要だ。
だから外食産業は、サービス料を取る。
それは、大衆が負う必要のない、リスク代である。
これを中間マージンとか、利益とかいう。
知識も同じだ。
誰かが苦労して得てきた真理や知識を、
その苦労なく本などで売る。
ネット時代になって、
知識は無料になりつつある。
セックスもそうだ。子育てもそうだ。
葬式もそうだ。
○○代理店や代理業や代行は、
すべてサービス業である。
彼らは、リスクを負わない。
負うのは、現場の、ものを取りに行く人たちだ。
よく広告代理店とプロダクションは、
鵜飼いと鵜にたとえられる。
私たち現場の者は鵜である。
リスクを負って得てきた魚を、
私たちは金銭と引き換えに吐き出す。
それは、その金銭で別の何かを、
リスクなく得るためである。
何が言いたいかというと、
みんな死にたくないのだ。
リスクを負いたくないのだ。
リスクを負わないと、何かを得られないのに。
私たちは、現場の人である。
リスクを負い、つまり死と引き換えに、
私たちは作品をつくる。
私たちの死とは、肉体的な死のことではなく、
「詰まらない」という評価のことだ。
沢山の悪評ももらいつつ、
それでも良かったという人もたくさんいれば、
私たちは死なずに生きていく。
死を恐れるなとは言わない。
怖い。
しかし、成功したやつは、
どこかでえいやと死をかけた人だけなのだよ。
それを、商人が買い漁る。
さらに言うと、
商人が金貸しから金を借りないと、
映画を作ることが出来ない。
金貸しは何もリスクを負ってないから、
リスクを負う私たちからは、
差別されて当然である。
もっとも汚い仕事であると。
(葬儀屋さんや掃除屋さんは、美しい仕事であると僕は思う。
どんなにキレイなスーツを着ても、金貸しは汚い)
僕は、世界は単純にこう出来ていると考えている。
プロデューサーや編集者は商人で、
製作委員会や出資者は金貸しである。
たとえばアマゾンなんかを例にとれば、
ポチるだけにリスクを減らしてしまったわけだ。
人は怠惰に慣らされている。
映画館に行くリスクを、ネットフリックスが減らしているらしい。
映画はどこへ行くのか。
物語は、相変わらず泥々のリスクと最高の果実を描くだろう。
現実は、ポチるリスクだけである。
投資とか運用とか暴落とか風評とか、金貸しの論理が世界を覆いつつある。
リアルはどっちだ。
2017年06月01日
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