ある日閃く。
書きたくなって仕方ないことを書いてみる。
しかしそれは、
書いてみると詰まらないことだったりする。
人は、もしかしたらその為に書くのかも知れない。
頭からあふれでそうなものを、
整理するために書くのかも知れない。
たとえば日記はそのようなもので、
誰に見せるためのものでもない。
ブレインストーミングという手法は、
とにかく頭のなかにあるものを全部出して、
頭のなかを空っぽにして、
新しく湧き出せるようにする為の手法である。
ところで。
大したことないかもしれないものは、
捨ててよい。
しかし捨てるのではなくて、
横に置いておくのがいい。
開かない日記のようなもので、
書いたけど見ないくらいのスタンスがいい。
その上で、
じゃあ価値のあることってなんだろう、
と、頭を整理し始めるといい。
僕は第一稿は膿のようなものだとよく言う。
思考をそのまま指がしゃべるように記録したら、
それは夢のように支離滅裂なのではないか、
とも書いた。
けれど、外に出すことを恐れてはならない。
外に出すことで、
何が価値があり、
何が大したことないかを、
確認出来るからである。
第一稿を読み返して、
俺にはこんなに実力がなかったのかと、
恥ずかしくなることは、
おそらく全員が通る道である。
欠点ばかりが目立って、辞めてしまいたくなるものだ。
それはとてもいいことだ。
欠点が見えているのなら、修正することが出来るからだ。
一番問題なのは、欠点が見えていないことだ。
恥ずかしく思うならば、希望はあるわけだ。
そのときに、
何が価値があることで、
何は大したことないと評価することの方が、
実は難しいのである。
リライトの原則は、
「いいところを残し、悪いところを直す」
だからである。
それがいいか悪いか、
分別出来ていないと、
何回書き直したって船は山に登るのだ。
まず、
自分が頭のなかに思っていることが、
一番素晴らしいとは限らない。
外に出してみると案外大したことないと、
分かることがある。
逆に、大したことないと判断していたことが、
物凄く大きな価値を持つこともある。
どちらにせよ、
あなたの頭のなかにあるだけでは、
それは判断しようがない。
とにかく外に出すこと。
断片的でも箇条書きでも、落ちのない文でもいい。
沢山書け。
そのジャンクから、
金鉱石の輝きを探し、
メッキを捨てる作業をするとよい。
慣れたら書かなくても出来るような気がするでしょ。
でも経験上、無理なんだよ。
それは先日書いた、
「心の深さは計測単位がない」ということと関係しているような気がする。
「童貞のエアセックスは、おっぱいまでの距離感がおかしい」
というのと同じで、
頭のなかで思うことは、
現実の空間関係と違う世界があると僕は考える。
だから突飛な発想は生まれ得るし、
だから閃いたと思っても大したことないのだと。
とにかく外に出してみること。
直すこと。
整理すること。
前のを引っ張ってくること。
これを何回も繰り返して、
最初の閃きを、
文章という道具できっちり組み立てる。
それが、文章を書くことだと僕は思う。
だからBSしたら永遠に消えてしまうデジタルでは、
僕は書かない。
消したやつが地層のように3D化されているエディタねえかな。
Z方向に履歴が残るやつ。
そんなんだったら使うかもしれない。
ミスタイプ修正との分別が難しいか。
(ワードの校正モードを使ってみたけど、
何がやりたいのか、どう活用すればいいのか分からなかった)
実は、
文章を書くということは、
それ自体が、
自分の思考を整理してまとめることであったりする。
幸せになる方法も、
自分の願望や目標を書き出せ、
なんてよく言うよね。
それは、自分の夢想を目の前に登場させて、
観察し、
現実的な形に整形していく、
方法論なんだよね。
重ねていうけど、
こういうことにデジタルは向いてない。
(勿論カタナ式もだ。カタナ式はデジタル入力を効率化してるだけだから)
あなたの頭のなかを、
全部取り出そう。
書かないことには何も始まらない。
大したことないかもしれないし、
金鉱石があるかもしれない。
金鉱石があったら、磨いていくといい。
基本は、この繰り返しでしかない。
なんて地道なんだ。
2017年06月02日
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