僕は、資料探しをする人をバカだと考えている。
何か書きたいなあ。
でも面白いこと思いつかないや。
なんか探そう。
今世の中で面白いことはなんだろう。
よし、ネットや本屋で探してみよう。
あるいは誰かを呼び出して話を聞いてみよう。
へえ、そんなことがあるんだ、おもしろーい。
そんなこともあるんだ、おもしろいね。
いや、それじゃまだ詰まらない、もっと面白いことない?
さて、そろそろ面白いネタが沢山たまったぞ。
これらを元になんかできないかな。
使えなかったやつは捨てて、
自分の本当に面白かったと思えるものを残そう。
これは、間違いだ。
なぜなら、「すでにある過去からパクっている」からだ。
ネットのない時代は、
情報の流通には時間差があったので、
鮮度の高いネタをパクれば、フロントラインに立てた。
しかし今は情報が一瞬にして検索できてしまう。
だから、
「誰も知らない面白いものを過去から探す」という行為は、
愚か者の行為である。
なにやったって何かのパクりだし、
ばれないようにマイナーなものからパクれば、そもそもパワーがないからだ。
発想が初手から間違っている。
まず、面白いことを思いつけ。
これってもう誰かがやってるかな、
と、チェックするために検索を使え。
検索の結果、似たようなものが出てきてしまったら、
同じネタでも違うアプローチが出来ないか考えるのもいい。
で、それをまた似たようなものがないか調べるといい。
そのうち、そのネタ周辺で、
どこまでやられてて、どこから掘られていないかが、
分かるようになってくる。
前者の愚か者のやり方は、
既に掘られた他人の鉱脈を探し、残った宝を頂こうという、
盗人の考え方である。
後者のやり方は、
鉱脈は自分のなかにある。
自分が面白いことを思いつけばいいだけだ。
あとはどれだけ似たようなものがあるか、
調べるだけでいい。
過去に似せるか、
過去に似てたら落とすか。
全く真逆の立場である。
どちらが本当に面白いものを作れるか、
結論は明らかだ。
要するに、
自分から面白いことを思いつけないバカが、
過去から資料を探して切り貼るのだ。
才能なきものは死ね。
で、大したことない思いつきを、
大したことないと判断できるか、
すげえ面白いと判断できるかは、
これまでの面白いことの歴史を知らないと、
判断できない。
つまり、暇があったら名作を見て、
面白おかしい毎日を送るのだ。
それが何年か先に、
単なるパクリでない独自の面白さとして、
花開く。
資料探しは、過去から運搬するためにやるのではない。
遥か未来のためにやり、
過去と峻別するためにやる。
企画やんなきゃ、なんかないかな、
とネットを開くやつは、バカである。
ちなみに、その資料探しをプロダクションにタダでやれといい、
それを元に企画を始める広告代理店は、死ぬべきである。
2017年06月03日
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