> 「人間ドラマがある」「人間が描けている」というのは、具体的にはどういうことなのでしょう? 映画を見ていて「人間ドラマがある・ない」「人間が描けている・描けていない」の感覚は確かにあるのですが、言語化しようと思うと頭を抱えてしまいます。 各人物の動機・行動・ぶつかりあい(コンフリクト)・内心や内面の変化、をきちんと描けということなのでしょうか?
とてもいい質問だと思います。
なかなか答えづらい、本質的な質問でもあります。
逃げずに答えるには作家生命がかかるものです。
「人間を描く」ということは、
その作家が、「人間とはこのようなものである」
という考えを披露することだと思っています。
以前に記事化したけど、
時代によって、「人間の本質」
は変わってきたのだそうです。
人間は、動物と違うのだから、
理性や思いやりや秩序や神への信仰や道具を持つ、
と考えたのは、産業革命以前のことでした。
人間は、機械ではないのだから、
感情を持ったり、規則に縛られずに自由に生きたり、
血の通った優しさを持ったり、恋や愛のすばらしさを知っているのだ、
なんてのが人間の本質だと思われました。
最近はどうかな。人工知能と対比して描かれるのかな。
人間は、たまに間違う。そのことでプログラムにない成長をすることがある。
大局観があったり、創造性がある、
なんてことが人間の本質ではないか、
という時代に我々は生きているような気がします。
これらの例は、
「人間とは何か」ということに対して、
比較対象を持って来て考えるやり方です。
獣、機械やロボットや合理的すぎるシステムが、
伝統的には人間の敵で、
これからは「意味不明なプログラム的なもの」が敵になるかもしれません。
人間とはなんでしょう。
答えは出ない問いのひとつかもしれません。
だから、私たちは、
文学という、
「ストーリーという形式で人間を描く」
というジャンルに従事しているわけです。
もう少し具体的にいきましょう。
2ちゃんのコピペを例に。
定年退職の日、
いつもいっている蕎麦屋に行った。
いつもは五百円の一番安いかけそばしか食べていなかったが、
おやじに「今日で定年退職なんだ」と言ったら、
おやじは黙って海老天を乗せてくれた。
ありがとうと思い、大切に食べ終わった。
何十年も働いた会社、毎日食べたそば。
いつものように五百円をおいたら、
「八百円」
というやつ。文章は適当に僕が再構成しています。
これが笑い話になるのは、
「人情ものと思わせておいて、
意外とドライなおやじ」というところです。
つまり、この話で、「人間とは何か」ということの一部が描かれています。
人間とは温情があるものだ。
人間とは、相手に温情をかけられたと思ったら、心が優しくなる。
しかし人間とは、金には厳しい。
そういう感じのことです。
作家とは、
「人間とはなにか」を、ストーリーで表す職業のことです。
だから「人間とは、温情である」なんてことを、
主張するのではなく、
ストーリーの形式で暗示する必要があります。
この笑い話は、
人間の温情話のテンプレからのどんでん返しですが、
「そう甘くはないよ社会は」という、
別の観点からの人間を描いている話でもあります。
これは、人類共通の「人間とはこのようなものである」
という見解があるわけではありません。
だから、作家というのは
「私は、人間というのはこのようなものであると思う」
という独自の見解を提出しなければなりません。
それを、テーマといいます。
海老天のテーマは、
「世間はドライできびしい」でしょうかね。
で、
「人間が描けていない」とか、
「人間ドラマが足りない」というのは、
このような、
「人間というものはこのようなものですよね」
といった部分が足りなさすぎるときに言われる定型句だと考えます。
たとえば足りない話にしてみましょう。
定年退職の日。
いつもの通いなれた蕎麦屋で、
最後のランチを。
よし、退職祝いで海老天そば八百円。
おいしかった。
ここには「退職の日に、いつもの蕎麦屋でいいものを食べる」
という「ドラマティックな要素」はありますが、
人間は描けていません。
人間とはこのようなものである、
という独自の考え方はなく、
「自分にご褒美」という、
誰でもやる普通のことしか描けていないからです。
それは、その作家独自の人間観でもなんでもありません。
他人の日記レベルです。
さらに、人間ドラマもありません。
人間ドラマって?
「人と、人が、絡んで、
なにかがおこること」
とゆるく定義しておきましょう。
この例では誰とも絡まないので、人間ドラマはありません。
仮に蕎麦屋のおやじと絡めてみましょう。
「おやじ、俺今日で定年退職なんで、
海老天そば頼むよ」
「毎度あり」
これでは、絡みはあるものの、なにも起こっていません。
だから人間ドラマにはなっていません。
ロボットでも人工知能でもできる対処でしょう。
「おやじ、俺今日で定年退職なんで、
海老天そば食べちゃったよ」
「そうかい。おめでとう」
これでも人間ドラマには遠いです。
ただのあいさつでしかないからです。
職場の冷たい人間関係とは違う、温かい交流レベルです。
「おやじ、俺今日で定年退職なんで、
海老天そば食べちゃったよ」
「そうかい。おめでとう」
「だから、もうどうなってもいいので、
手をあげろ(と包丁を出す)」
みたいに絡んでいくと、人間ドラマがはじまります。
これからの展開は考えていませんが、
とにかく何かが起こったわけです。
人間ドラマで人と人が絡んで
(つまり事件がそこで起こり)、
その結果、
その作家独自の
「人間ってこういう生き物だよね」
というものが浮き彫りになってくれば、
それは「人間ドラマで、人間を描いた」
ということになります。
本来、
ストーリーとは、それに加えて、
わくわくどきどきや、感心するものや、
うっとりする何かや、
見事な落ちやどんでん返しなどを加えてつくってゆくものです。
その根幹には「人と人の間に何かがおこること」
や、その作家の「人間とはこういうものだと思っている」がいるというわけです。
そういうことが全然できていない、
へたくそなストーリーを、
人間ドラマが足りないなあとか、
人間が描けていないなあ、
と批判したりするわけです。
「足りないから足す」、
という頭の悪い対処法だと、
「うわー」って叫ぶシーンを足したり、
号泣するシーンを足したり、
誰かが死ぬシーンを足したり、
「余命が三か月しかない」と足したり、
「好きって言ったじゃない!」って叫ぶシーンを足したりして、
人間ドラマを「足した気になる」だけでしょう。
多くのだめな東宝映画は、
いまこの病に陥っていますね。
そうじゃなくて、
もっと根本的なものが足りてないのにね。
その作者なりの、
「人間とはこういうものだよね」
というのはどういうものか。
それは、一般的か、
それとも個性的か。
それは理解できるものか、理解に苦しむものか。
それは納得いくものか、腑に落ちるものか。
ありがちで良く聞くものか。聞いたことない新しいものか。
深く心にささるものか。どうでもいい浅いことか。
そしてそれは、人と人が絡んで起こる何かで、
表現されているか。
そういうことが、
人間ドラマだったり、人間を描くこと、
ということの底にいると考えます。
もちろん、コンフリクトやら、変化やら、
起承転結やら、サブフロットやら、
落ちやら前ふりやらの、
技術的なことはあるでしょうが、
もっと根本的ななにかを意味していると、
僕はおもいます。
だから要するに、
人間が描けていないと言われるのは、
へたくそ、と言われているようなものだと僕は考えています。
セックスが下手だと言われて、
何が足りないんだい?と聞くような、愚かさと同じだと。
まあ、「足りない」とか言われれば、
足そうと思うのが人情ですが、
言葉の裏にいる正解は、そうではないのです。
人間を描けてないなあとか、
もうちょい人間ドラマを見たかったなあ、
と不満になるものを見てみると、
通り一遍のことしかやってなかったり、
テンプレしかなかったり、
とても浅いもの(小学生の作文レベル)のはずです。
独自の強烈な何かを見たい、
というのはストーリーを見る目的の一つですが、
ビジュアルや音の刺激はオリジナリティがあっても、
ストーリーにそういうものがないと、
パンチが足りないとか、人間が足りないとか、
そういう感想を抱くと思います。
逆に言うと、
私たちは文学を受け取るときに、
ガワの刺激や、ストーリーの面白さや、モチーフの斬新さを楽しむのですが、
いちばん、人間をそこに求めているのではないでしょうか。
2017年06月04日
この記事へのコメント
「作家の眼」というやつですね。丁寧なご回答どうもありがとうございました。
Posted by 千ドル at 2017年06月06日 03:36
コメントを書く
この記事へのトラックバック