前記事のつづき。
この考え方は、創作や作品への態度にもあらわれる。
とにかくパーッとやっちゃえばいいんだ、
整合性とか気にしない。
最悪あとで埋め合わせときゃいいんだ。
なんなら没でもいいや。次つくるし。
ノリが一番大事。
どれだけヒートアップするかが全て。
そう考えるのは、狩猟民族的な立場だ。
破綻は許さない。
作品として完璧であるべきだ。
一糸の乱れも気になる、背骨の歪みは座りがわるい。
練り上げて、後代に語り継がれる永遠のものになるべきである。
こう考えるのは、農耕民族的な立場だ。
僕はこれまでのことからわかる通り、後者である。
車田正美という作家は、前者である。
ドラマ風魔の小次郎は、
原作のハチャメチャなノリやぶっ飛んだ後先考えない展開を、
大切に保存しながらも、
感情移入に至る成長曲線や、サブプロットの対比や、
最初から枠組みをきちんとつくって破綻なく修繕した、
つまりは狩猟民族と農耕民族の、
奇跡のマリアージュであったといえよう。
さて。
興行ということを考えよう。
これは狩猟民族的なものである。
一時わあっとやって、小屋を閉めて次へ移動すればいいシステムだからだ。
旅の一座とともに、芸能というものは発達した。
能や歌舞伎は河原者のものであり、
ジプシーにおいてもそれは同じだ。サーカスみたいなことだ。
常設小屋なんかなくて、
開けては閉めて移動して、
なのだ。
だから、映画興行は、初日が全てである。
一過性のブームさえ作ってしまえば、
作品性(後世まで語られる完璧さなど)は、
さして重要ではないのだ。
だって興行は、狩猟民族的だから。
だから人気芸能人を使うし、
だから映画の宣伝費は製作費の二倍である。
映画の興行だと話が難しくなるから、
マジックショーなんかをイメージすると分かりやすい。
歌謡ショーでも○○講演会でも座談会でもいい。
興行企画とは、一時の流行りを作るものは今なにかを、
考えることだ。
中身については、
「今人気のあるものを持ってくれば、間違いない」
と考えるに過ぎないのである。
困ったことに、これに資金提供する、
銀行という組織も狩猟民族的である。
さあ困った。
今、邦画は、作品性を失い、ただの芸能人ショーになりつつある。
それは、狩猟民族的な考え方の人が、
その業界を動かす、殆どになっているということか。
一方、映画館というハコは、
その場を動かない、農耕民族のやり方である。
農耕民族の元締め、ヤクザの持つ歓楽街の一部である。
だから今映画館は苦しみ始めていて、
ネット映画という、ハコごと移動する狩猟民族的なものへと、
時代は移行しかかっている。
本屋さんもゲーセンも、農耕民族の考え方だった。
僕の大好きなところだった。
スト5がネットでしか出来ないのに、
僕は時代の変化を感じたものだ。
永遠に残る作品性を、皆が求めていないかというと、
そうではないと思う。
ただ、ネットではその声を拾いにくいというだけのことで。
(SNSというのも、狩猟民族的なものである)
そういえば、
日本の基礎科学は随分弱体化した。
すぐに成果が出ない基礎研究代を削った、
無能な民主党という狩猟民族的考えのせいである。
こうして、農耕民族的な日本は、
ずるずると後退してゆくのかも知れない。
狩猟民族のやることは、すぐに成果がでる。
しかし永続しない。
そのころ、その狩猟民族はそこにはいない。
農耕民族のやることは、最終的な成果でみている。
そこに居続けて責任を取るためである。
だけどすぐに成果は見えてこない。
今はとりあえずすぐ結果の見える、狩猟民族的なものが巾を利かせている。
でも、亀が勝つこともある。
あきらめず、長生きしよう。
コツコツと、作品を練り上げていくといい。
2017年06月05日
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