2017年06月05日

作品観と狩猟民族と農耕民族

前記事のつづき。
この考え方は、創作や作品への態度にもあらわれる。


とにかくパーッとやっちゃえばいいんだ、
整合性とか気にしない。
最悪あとで埋め合わせときゃいいんだ。
なんなら没でもいいや。次つくるし。
ノリが一番大事。
どれだけヒートアップするかが全て。

そう考えるのは、狩猟民族的な立場だ。

破綻は許さない。
作品として完璧であるべきだ。
一糸の乱れも気になる、背骨の歪みは座りがわるい。
練り上げて、後代に語り継がれる永遠のものになるべきである。

こう考えるのは、農耕民族的な立場だ。


僕はこれまでのことからわかる通り、後者である。
車田正美という作家は、前者である。
ドラマ風魔の小次郎は、
原作のハチャメチャなノリやぶっ飛んだ後先考えない展開を、
大切に保存しながらも、
感情移入に至る成長曲線や、サブプロットの対比や、
最初から枠組みをきちんとつくって破綻なく修繕した、
つまりは狩猟民族と農耕民族の、
奇跡のマリアージュであったといえよう。


さて。
興行ということを考えよう。
これは狩猟民族的なものである。
一時わあっとやって、小屋を閉めて次へ移動すればいいシステムだからだ。
旅の一座とともに、芸能というものは発達した。
能や歌舞伎は河原者のものであり、
ジプシーにおいてもそれは同じだ。サーカスみたいなことだ。
常設小屋なんかなくて、
開けては閉めて移動して、
なのだ。

だから、映画興行は、初日が全てである。
一過性のブームさえ作ってしまえば、
作品性(後世まで語られる完璧さなど)は、
さして重要ではないのだ。
だって興行は、狩猟民族的だから。

だから人気芸能人を使うし、
だから映画の宣伝費は製作費の二倍である。

映画の興行だと話が難しくなるから、
マジックショーなんかをイメージすると分かりやすい。
歌謡ショーでも○○講演会でも座談会でもいい。
興行企画とは、一時の流行りを作るものは今なにかを、
考えることだ。

中身については、
「今人気のあるものを持ってくれば、間違いない」
と考えるに過ぎないのである。

困ったことに、これに資金提供する、
銀行という組織も狩猟民族的である。


さあ困った。
今、邦画は、作品性を失い、ただの芸能人ショーになりつつある。
それは、狩猟民族的な考え方の人が、
その業界を動かす、殆どになっているということか。

一方、映画館というハコは、
その場を動かない、農耕民族のやり方である。
農耕民族の元締め、ヤクザの持つ歓楽街の一部である。
だから今映画館は苦しみ始めていて、
ネット映画という、ハコごと移動する狩猟民族的なものへと、
時代は移行しかかっている。

本屋さんもゲーセンも、農耕民族の考え方だった。
僕の大好きなところだった。
スト5がネットでしか出来ないのに、
僕は時代の変化を感じたものだ。

永遠に残る作品性を、皆が求めていないかというと、
そうではないと思う。
ただ、ネットではその声を拾いにくいというだけのことで。
(SNSというのも、狩猟民族的なものである)


そういえば、
日本の基礎科学は随分弱体化した。
すぐに成果が出ない基礎研究代を削った、
無能な民主党という狩猟民族的考えのせいである。
こうして、農耕民族的な日本は、
ずるずると後退してゆくのかも知れない。


狩猟民族のやることは、すぐに成果がでる。
しかし永続しない。
そのころ、その狩猟民族はそこにはいない。
農耕民族のやることは、最終的な成果でみている。
そこに居続けて責任を取るためである。
だけどすぐに成果は見えてこない。


今はとりあえずすぐ結果の見える、狩猟民族的なものが巾を利かせている。
でも、亀が勝つこともある。
あきらめず、長生きしよう。

コツコツと、作品を練り上げていくといい。
posted by おおおかとしひこ at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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