私たちの頭のなかでは、日々スパークが起こっている。
言語になるもの、非言語のもの、色々だ。
で、ある時何かまとまりになったことを思いつく。
「どこかへ飛んでいってしまう前に、
これをいかに書き付けるか」が、
文房具のあるべき姿であると、
なんとなく長いこと思われてきた。
僕はどうやら違うと思うのだ。
「思いついたらすぐ書かなきゃ!」
と思ってるのは、表現慣れしていない、
まだまだ初心者ではないかと思う。
ワードが重いから、軽いタテエディタにしようとか、
QWERTYローマ字は遅くて不合理だから、カタナ式を開発しようとか、
パソコンの起動が遅いから、
ポメラにしようとか、Evernoteがいいとか、
スマホのメールが速いとか、
いやいや結局物理のアイデアノートだとか、
これらの議論の大きな目的は、
「いかに速く思いつきを書き付けるのか」
に尽きる。
もちろんそのあとのデータ管理のこともあるけど、
そこは二番目の目的だといえよう。
バブルの頃、高級フランス料理店でアイデアを思いつき、
ペンも紙もなかったので、
テーブルクロスに彼女の口紅を借りて書き散らし、
そのテーブルクロスを買い取ったという話がある。
これも、閃きがいかに大切かという事を伝える逸話なわけだ。
勿論、忘れたら永久に消えてしまうなにかを、
とにかく形にすることはとても大事で、
まずそれが出来るのは、
当たり前でしかない。
(つまり重いワードなど糞である)
さてここから本題。
問題は、その閃きの、ほとんどがジャンクだということ。
もしあなたのアイデアノートがあるならば、
ネタのメモは除いて、
閃きとか思いつきだけを抽出して並べてみるといい。
わけわからん。
多分そういう感想が出る。
僕はカタナ式の完成で、「指がしゃべる」という領域に、
恒常的に達した。
「評価打鍵」といって、その配列を使って、
思うことや見本文章をひたすら打ってみて、
その配列の良し悪しを見極める工程がある。
そのとき、自分の思考が駄々漏れになるがごとく、
指がしゃべるように書き付けていったのだが、
それが見事に脈絡がなく、
思考が飛びまくる、まるで夢の中のような文章であったのだ。
つまり。
ほとんどの思考や閃きなんて、
単発的で脈絡がない。
文章とは、それを纏める行為のことを言う。
ある閃きを拾うなら、別の閃きは捨てる。
そこから論理展開出来るように前提と展開と結論を組む。
そういうことそのものが、
文章を書くということである。
どちらかといえば、それは推敲の段階の話なのだ。
第一稿が気持ちよく書けても、
それは夢の中の文章のように、
脈絡がない。
それを、脈絡があり、首尾一貫するように整理することが、
文章を書くという行為なのだ。
これに気づいたのは、
やはり高速に入力出来るようになってだ。
遅い入力のころは、
「書くより忘れるスピードが速い!
つまり、思考が蒸発してしまう!」
という強迫観念にとらわれていた。
だけど、蒸発しない思考を見れるようになると、
思考、たいしたことねえぞ、
と正体がばれたのである。
じゃあ、全ての文章は、
推敲不可欠なのか?
そうでもないだろう。
多くの文章は、
書くことと同時に推敲しながら書いている。
この文の次に書く文が、
うまく繋がっていれば続けるし、
うまく繋がっていないなら、書かないか、書いてみては消す、
ということがリアルタイムで起こっているはずだ。
で、最後まで繋がればその文章は完結するし、
最後まで繋がらなければその文章は挫折する。
文章が下手な人とは、
次に書く文が繋がらないのに繋げてしまうか、
次に書く文が繋げられないか、
次に書く文を思いつけないか、
次に書く文を思いついても繋がらないことがわかり諦めるか、
そのどれかがしょっちゅう起こる人のことをいう。
つまり、閃きのアドリブだけで繋げていく人のことだ。
こういう人は、閃いて書き始めたのに、
閃きが繋がっていかないから、
「どうしてうまくいかないのだろう。
閃きを書いてる間に忘れてしまうからだ。
閃きを全部記録出来ればいいのに」と、
閃きそのものに頼ろうとする。
そうじゃないのだ。
文章とは、閃きを繋げていくことでは書けない。
(短いのなら書けちゃう)
閃きの部分と繋げていく部分を整理して、
全部を繋がっているように、纏めるという行為なのだ。
纏める行為の中に、
構成力が鎮座しているわけなのだ。
つまり。閃きとは、構成なきアドリブである。
脈絡が繋がり、全てが纏まったひとつになるには、
閃きを繋げているだけではダメだということだ。
これが、文章が下手かうまいかの、
まず最初の境目にあるわけである。
勿論、例外的にアドリブの達人は輩出する。
しかし、アドリブの能力は閃きに依存するため、
閃かなくなったときが、才能の終わりだ。
実際のところ、
文章力なんて、閃き1構成力9ぐらいだ。
その文章が完成して、はじめて閃きの良し悪しが判断のまな板に乗るわけで、
閃き1だけだと、文章として完成しないのである。
さて、この文章もそろそろ纏めなければならない。
もちろん、僕はこの文章を、
閃きながら書いているわけだけど、
実際は、構成力も発揮しながら書いている。
ここまでが序盤で、中盤に突入したかなとか、
これとこれを書いてからこれを書かないと、論旨が繋がらないぞ、
とかを俯瞰しながら閃き続けているわけだ。
もし文章の下手な人がいるなら、
全体を俯瞰しながら閃きをコントロールすることを、
学んでみるとよいのではないだろうか。
俯瞰するといっても、
「今自分は最終的にこんなことを言おうとしている」
「今自分はその言おうとしていることの、第○章にいる」
「そのために今から言うことは、必要か?」
「どういうことを思いつけば話が繋がるか?」
なんてことを絶えず監視し続けられればいいわけだ。
で、結論。
閃きなんて、全然たいしたことない。
試しに、30分ぐらい自分の考えをボイスレコーダーに録音して、
次の日に再生してみるといい。
昨日は分かってたのに、今日聞くとさっぱり、ということになるぞ。
表現とはすなわち、
その閃きをみんなが分かるように整形することと、
更に言うと、
それをめっちゃ楽しんで理解できるようにすることである。
めっちゃ楽しんでくれたかどうかは分からないが、
分かるように整形することは、
この文章では達成できたかな。
2017年06月06日
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