2017年06月06日

「思いついたことをすぐ書かないと!」という強迫観念

私たちの頭のなかでは、日々スパークが起こっている。
言語になるもの、非言語のもの、色々だ。
で、ある時何かまとまりになったことを思いつく。

「どこかへ飛んでいってしまう前に、
これをいかに書き付けるか」が、
文房具のあるべき姿であると、
なんとなく長いこと思われてきた。

僕はどうやら違うと思うのだ。
「思いついたらすぐ書かなきゃ!」
と思ってるのは、表現慣れしていない、
まだまだ初心者ではないかと思う。


ワードが重いから、軽いタテエディタにしようとか、
QWERTYローマ字は遅くて不合理だから、カタナ式を開発しようとか、
パソコンの起動が遅いから、
ポメラにしようとか、Evernoteがいいとか、
スマホのメールが速いとか、
いやいや結局物理のアイデアノートだとか、
これらの議論の大きな目的は、
「いかに速く思いつきを書き付けるのか」
に尽きる。

もちろんそのあとのデータ管理のこともあるけど、
そこは二番目の目的だといえよう。

バブルの頃、高級フランス料理店でアイデアを思いつき、
ペンも紙もなかったので、
テーブルクロスに彼女の口紅を借りて書き散らし、
そのテーブルクロスを買い取ったという話がある。

これも、閃きがいかに大切かという事を伝える逸話なわけだ。

勿論、忘れたら永久に消えてしまうなにかを、
とにかく形にすることはとても大事で、
まずそれが出来るのは、
当たり前でしかない。
(つまり重いワードなど糞である)


さてここから本題。

問題は、その閃きの、ほとんどがジャンクだということ。

もしあなたのアイデアノートがあるならば、
ネタのメモは除いて、
閃きとか思いつきだけを抽出して並べてみるといい。

わけわからん。

多分そういう感想が出る。

僕はカタナ式の完成で、「指がしゃべる」という領域に、
恒常的に達した。
「評価打鍵」といって、その配列を使って、
思うことや見本文章をひたすら打ってみて、
その配列の良し悪しを見極める工程がある。
そのとき、自分の思考が駄々漏れになるがごとく、
指がしゃべるように書き付けていったのだが、
それが見事に脈絡がなく、
思考が飛びまくる、まるで夢の中のような文章であったのだ。

つまり。

ほとんどの思考や閃きなんて、
単発的で脈絡がない。

文章とは、それを纏める行為のことを言う。


ある閃きを拾うなら、別の閃きは捨てる。
そこから論理展開出来るように前提と展開と結論を組む。
そういうことそのものが、
文章を書くということである。

どちらかといえば、それは推敲の段階の話なのだ。

第一稿が気持ちよく書けても、
それは夢の中の文章のように、
脈絡がない。
それを、脈絡があり、首尾一貫するように整理することが、
文章を書くという行為なのだ。


これに気づいたのは、
やはり高速に入力出来るようになってだ。
遅い入力のころは、
「書くより忘れるスピードが速い!
つまり、思考が蒸発してしまう!」
という強迫観念にとらわれていた。
だけど、蒸発しない思考を見れるようになると、
思考、たいしたことねえぞ、
と正体がばれたのである。


じゃあ、全ての文章は、
推敲不可欠なのか?

そうでもないだろう。
多くの文章は、
書くことと同時に推敲しながら書いている。
この文の次に書く文が、
うまく繋がっていれば続けるし、
うまく繋がっていないなら、書かないか、書いてみては消す、
ということがリアルタイムで起こっているはずだ。

で、最後まで繋がればその文章は完結するし、
最後まで繋がらなければその文章は挫折する。

文章が下手な人とは、
次に書く文が繋がらないのに繋げてしまうか、
次に書く文が繋げられないか、
次に書く文を思いつけないか、
次に書く文を思いついても繋がらないことがわかり諦めるか、
そのどれかがしょっちゅう起こる人のことをいう。

つまり、閃きのアドリブだけで繋げていく人のことだ。

こういう人は、閃いて書き始めたのに、
閃きが繋がっていかないから、
「どうしてうまくいかないのだろう。
閃きを書いてる間に忘れてしまうからだ。
閃きを全部記録出来ればいいのに」と、
閃きそのものに頼ろうとする。

そうじゃないのだ。

文章とは、閃きを繋げていくことでは書けない。
(短いのなら書けちゃう)

閃きの部分と繋げていく部分を整理して、
全部を繋がっているように、纏めるという行為なのだ。

纏める行為の中に、
構成力が鎮座しているわけなのだ。

つまり。閃きとは、構成なきアドリブである。


脈絡が繋がり、全てが纏まったひとつになるには、
閃きを繋げているだけではダメだということだ。


これが、文章が下手かうまいかの、
まず最初の境目にあるわけである。

勿論、例外的にアドリブの達人は輩出する。
しかし、アドリブの能力は閃きに依存するため、
閃かなくなったときが、才能の終わりだ。
実際のところ、
文章力なんて、閃き1構成力9ぐらいだ。
その文章が完成して、はじめて閃きの良し悪しが判断のまな板に乗るわけで、
閃き1だけだと、文章として完成しないのである。


さて、この文章もそろそろ纏めなければならない。
もちろん、僕はこの文章を、
閃きながら書いているわけだけど、
実際は、構成力も発揮しながら書いている。
ここまでが序盤で、中盤に突入したかなとか、
これとこれを書いてからこれを書かないと、論旨が繋がらないぞ、
とかを俯瞰しながら閃き続けているわけだ。

もし文章の下手な人がいるなら、
全体を俯瞰しながら閃きをコントロールすることを、
学んでみるとよいのではないだろうか。
俯瞰するといっても、
「今自分は最終的にこんなことを言おうとしている」
「今自分はその言おうとしていることの、第○章にいる」
「そのために今から言うことは、必要か?」
「どういうことを思いつけば話が繋がるか?」
なんてことを絶えず監視し続けられればいいわけだ。


で、結論。
閃きなんて、全然たいしたことない。
試しに、30分ぐらい自分の考えをボイスレコーダーに録音して、
次の日に再生してみるといい。
昨日は分かってたのに、今日聞くとさっぱり、ということになるぞ。

表現とはすなわち、
その閃きをみんなが分かるように整形することと、
更に言うと、
それをめっちゃ楽しんで理解できるようにすることである。

めっちゃ楽しんでくれたかどうかは分からないが、
分かるように整形することは、
この文章では達成できたかな。
posted by おおおかとしひこ at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック